チチハル大雨洪水

7月 23rd, 2010

久しく更新が遅れ申し訳ございません。

ヤフーチャイナのニュースを見ていたところ、大雨の被害画像が載っていました・・・。

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「チチハル 暴雨」で中国インターネットを検索してみると、結構頻繁にあるようなのです。たくさん雨が降りやすい地域なのでしょうか。一部道路や橋も壊れたようです。

こんな大雨洪水では、被害者の体調も心配ですが、まだまだたくさん埋まっている毒ガス兵器も、流されて破壊し液が流れ出たりとか、川の中で場所が移動してしまったりとか、さまざまな新しい被害が出てくる可能性も多々あります。・・・本当に心配ですね。ちゃんとした調査・対策をしないことは許されないと思います。

「裁判記録」地道にアップしています。

6月 29th, 2010

こんにちは。なかなか更新ができず申し訳ないのですが、「支援する会」ニューズレター担当の大谷先生からデータを頂き、右側メニューの「裁判記録」をまとめています。それぞれの記録が長いので、全部続ける形にせず、1回ごとの裁判記録が別ウインドウで出るようにしました。ぜひ、今までの裁判を振り返ってみてください。

控訴審がいつになるのかなどは、分かり次第お伝えいたします!!

(写真はカメラマンの嶋村さん撮影、チチハルの街の風景)

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2010年5月24日 東京地裁 第1審判決内容

6月 29th, 2010

◇ 2010年5月24日 東京地裁 第1審判決

原告の請求を棄却する。(敗訴)

第2 当裁判所の判断

1 請求原因(1)について

証拠(甲209、212、213、214、216の1、221、228の1、229~248、250~266、原告陳栄喜本人、原告陳紫薇本人、原告馮靖雯本人、原告龍国安本人、原告楊樹茂本人、原告李双義本人、原告施青本人、原告王立冬本人)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

なお、以下で認定する月日の年は、全て平成15年(2003年)である。

(このあと、ほぼ原告側の主張どおりに、被害の事実が認定されています。)

2 請求原因(2)について

(1)前提事実
証拠(認定事実中に掲げたもの)によれば、以下の事実が認められる。

ア 毒ガス兵器に関連する条約

明治40年(1907年)、日本を含む各国により署名された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(ハーグ陸戦条約)は、その附属書である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」において、毒又は毒を施した兵器を使用することを禁止した(甲1の24頁、乙12の42頁)。日本は、明治44年(1911年)、同条約を批准した。

大正14年(1925年)、日本を含む各国より署名された「窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」(以下「ジュネーブ議定書」という。)において、戦争における毒ガスの使用が禁止された(乙12の102頁、乙25の100頁)。日本は、昭和45年(1970年)、上記議定書を批准した(乙12の107頁)。

イ 旧日本軍による毒ガスの生産

(ア)旧日本陸軍は、昭和4年(1929年)、広島県多くの字間の忠海兵器製造所で毒ガスの生産を開始し、昭和13年(1938年)からは、福岡県の曽根兵器製造所で毒ガスを砲弾に詰めて化学砲弾を製造する作業を開始した(甲1の3頁、甲29の8頁)。
旧日本海軍は、昭和18年(1943年)以降、神奈川県の相模海軍工廠で毒ガスを生産した(甲1の3頁)。
占領期にアメリカ軍が入手した旧日本軍の毒ガス生産量に関する資料等に基づいて、旧日本軍の毒ガスの生産量が7376トンで、化学兵器の海外への配備量が248万8309発であり、そのうちの大部分が中国への配備に当てられたと推定する研究が報告されている(甲1の5~13頁、甲300の39~40頁)。

(イ)旧日本陸軍が製造した毒ガスのうち、糜爛(びらん)性ガス(イペリットガス及びルイサイトガス。イペリットガスはマスタードガスとも呼ばれる。)は「きい剤」、くしゃみ性・嘔吐性ガスは「あか剤」、催涙性ガスは「みどり剤」と呼称されていた(甲1の3~5頁、甲29の7頁、甲300の5~6頁)。「きい剤」が本件事故の原因となった毒ガスである。

ウ 毒ガス兵器の中国への配備・保管

(ア)旧日本軍は、昭和12年(1937年)ころから、日本国内で生産した毒ガス兵器を中国に持ち込んで、中国内に駐留している各軍隊(北支那方面軍、中支那派遣軍、南支那方面軍等)に配備した(甲29の8頁、甲300の20~27頁)。
関東軍は、昭和14年(1939年)、斉々哈爾(チチハル)において、化学兵器の研究、実験業務等を扱う化学部(通称516部隊)を、昭和17年(1942年)、富拉爾基(現在のチチハル市フラルキ区)において、化学兵器の実験業務を行う化学部練習隊(通称526部隊)を、それぞれ編成し、終戦時まで駐屯した(甲54の関東軍化学部略歴、同部練習隊略歴)。

(イ)旧日本軍においては、毒ガス兵器を含む化学兵器は、化学兵器用の特殊格納庫に貯蔵すべきものとされており(甲4の化学兵器取扱細則案36条1項)、日本国内においては、毒ガス兵器が他の弾薬と区別されて地下に保管されることがあった(甲41の58、142,197頁)。

エ 毒ガス兵器の中国における使用

旧日本軍は、日中戦争の開始後、参謀総長からの使用許可の指示に基づき、昭和12年(1937年)7月から「みどり剤」を、昭和13年(1938年)4月から「あか剤」を、昭和14年(1939年)5月から「きい剤」を、それぞれ中国において使用するようになった(甲1の29、30、47頁、甲2、甲300の20頁)。

(以下、続く)

第14回口頭弁論(2009/12/22)

6月 29th, 2010

チチハル裁判が事実上の結審(2009年12月22日)
原告・丁樹文さんが最終意見陳述
     弁護団も渾身の思いで国にせまる

被害者は私たちを最後にしてほしい、精神的・肉体的苦痛を味わうことがないようにに・・・丁樹文さん意見陳述

私は1979年にチチハルから190キロ離れた農村で生まれました。妻と娘がいます。事故前にはたくさんの夢がありました。中学にも進学しなかったため、子どもには良い学校にいれたい、自分の家も持ちたい、親孝行もしたい、などというものでした。生活を切り詰め、2年間で3万元を貯金しました。

事故のことを話したいと思います。第一現場となった工事現場で働いていた畢海岩さんから5つのドラム缶が出た、売り物になるからという電話があり、取りにいきました。以前にも畢さんからはくず鉄を買ったことがあるので、この時も三輪車で取りにいきました。5つのドラム缶のうち、ひとつは腐食していて、ひとつはこわれて液体がもれていました。毒ガスとはまったく思いもしませんでした。同僚の高権さんと一緒にドラム缶を手でかかえて運びました。マスタードの臭いがしましたが、廃棄油かと思っていました。そこへ今回の事件で亡くなった李貴珍さんと出くわして、李さんに200元でこのドラム缶を売りました。李さんの三輪車にドラム缶を移しました。その時ドラム缶を手で触りました。李さんは毒ガスをさわった手でお札を数え、私に渡しました。私のお札も湿ってしまいました。

3ケ月入院し、退院してみると、我が子はハイハイができるようになっていました。子どももの成長が唯一の救いでした。妻や子に精神的・経済的負担をかけたことにとても苦しみました。治療もとてもつらいものでした。ますいもかけずに皮膚の水疱をつぶす治療は死んだ方がまし、と思うほどでした。退院後も早く仕事につきたいと就職活動をしました。建築会社、ダンボールの会社などで働こうとしましたが、できませんでした。以前より注意力が散漫になり、記憶力も衰え、体力もなくなっていました。以前軽く持ち上げられたものも持ち上げられなくなってしまいました。光の刺激に過敏になり、傷口も痛むなど仕事になりませんでした。仕事ができないとわかった時のつらさはなんともいえません。自分は役に立たない人間になったのか、と思ったり、家族の期待にも応えられない、というのはとてもつらいことでした。近所の友人・知人は「ブラブラしていてなまけている」とかげで言っていました。見た目の体はガッチリしていて、周囲の人に理解してもらえず、これもつらかったです。事故前の近所つきあいは、家の修理、調味料の貸し借り、食事の招待などをしていましたが、事故後は、みんな離れていきました。公衆浴場に行くと、私の体をみて離れていきます。結婚式に近所皆呼ばれているのに、私の家族だけよばれない、ということもありました。近所の親たちはうちの娘と遊ばせないようにしていました。私の方から、迷惑をかけたくないと考えて、人を避けるようになりました。友だちも少なくなり、ひっこしせざるを得ませんでした。気分的には楽になりましたが、毒ガス被害者と知られるかもしれないという恐怖感はいつもあります。毒ガス被害者ということは隠し通すつもりです。

被害者を代表して述べたいと思います。すべての被害者はそれぞれかけがいのないものを失いました。健康な体、仕事を失い、新しい仕事も見つからない、家族・親戚・助け合ってきた友人、将来の夢、生きる希望も失ってしまいました。皆将来に対しての不安を抱えています。治らない病気をかかえ、どこまで生きていけるのかわかりません。戦後何十年もたつのに、何の罪もない私たちが、なぜこんな被害をうけなければならないのでしょうか。加害者である日本政府は、原因究明もせず、被害者の前で説明もしていません。日本政府からの謝罪も受けていません、謝罪した上で、それにふさわしい弁償をしてほしいと思います。生涯にわたる医療支援、生活支援をしてください。裁判所は正義の判決を信じています。

日本政府は、精神的・肉体的苦痛を同胞が味わうことがないように、中国国内の膨大な化学兵器を処理してほしいです。

被害者は私たちを最後にしてほしい。

弁護士の最終意見陳述

<事実論>
井堀哲弁護士から、事実論についての意見陳述がなされました。本件はチチハルのマンション工事現場から5つのドラム缶が発見され、44名の被害がでて、そのうちの1名が亡くなったという事件です。戦後60年近くたって、ロシア国境近くでおこったものです。被告・国が認めたのは、独ガスは旧日本軍が製造したもの、というだけです。チチハルがどういうところで、なぜ5つのドラム缶がなのか、なぜ放置されたのか、ということについて何も言っていません。この毒ガスは戦争がおわる前後に組織的に隠蔽されたのではないか、ということについても国は何も言っていません。

原告・弁護団・市民の努力でさまざまな事実が判明しています。現場となった場所は東西に民航路、南北につうこう街が走る交差する地点の敷地の西北隅にあります。

ここには戦前、長さ1500m、幅100mのチチハル飛行場がありました。1931年9月に満州事変がはじまり、その年の10月には関東軍がチチハルを占領しています。満州航空株式会社をつくり、チチハル飛行場を建設し、格納庫、兵器処理施設、弾薬庫などを建設していました。2001年10月の時点まで弾薬庫の建物が存在していたことが確認されています。戦争当時、チチハルは対ソ戦略の拠点でした。516部隊という毒ガス部隊、526部隊という訓練隊もチチハルにおかれました。いくつかの毒ガス関連部隊が存在していたのです。ここでは毒ガスの貯蔵、実権演習もおこなわれていました。静岡の浜松飛行場で訓練したものを中心にチチハルでも演習がおこなわれていました。大量の毒ガスが常備されていました。弾薬庫の管理も厳重で、日本の敗戦時にそのまま遺棄されたのです。第三者にひきわたされた形跡はまったくありません。

被告・国はこれらの情報をきちんと収集したかどうかということです。復員局では1950年に調査をしています。部隊ごとの資料を作成し、1954年までに44,934名の聞き取りをしています。第六野戦兵器処では、弾薬を処理したが、武装解除まで間に合わなかった、という記録が残っています。昭和48年に旧軍毒ガス弾全国調査が国内についておこなわれ、敗戦直後に軍命で毒ガスを遺棄した証言がでてきました。このあと国内の調査で被害防止の処置がはかられました。これは国内だけで、国外の調査は実施していません。1999年に日中覚え書きができ、日本政府に廃棄義務が生じたのちも調査をしていません。こんなことが許されるでしょうか。

<国の責任について>
富永由紀子弁護士からは、国の責任についての意見が陳述されました。

この事件は覚え書き後4年でおこった事故です。まず予見可能性についてです。旧日本軍がこの飛行場周辺に配備・遺棄したのははっきりしています。チチハルのことは熟知していたというべきです。戦中、チチハルで大規模な演習がおこなわれていたというのは当時の資料に明記されています。1972年時点でも国内の大久野島で事故がおこり、調査をし、三方原でも調査をしたのに、国外の調査をしませんでした。調査義務を怠ったのです。 次は、結果回避義務についてです。被告・国は予見できたはずです。このチチハルの毒ガス弾が付近の住民に被害をもたらすことは予見できました。チチハルで調査し、毒ガス弾を回収し、無害化することをしなかったのです。97年に化学兵器禁止条約が発効し、99年には、日中の覚え書きもできています。中国国内での事故を防止することはできたはずです。国の責任はあきらかです。

<損害論>
佐藤香代弁護士は、毒ガスが人体に及ぼす影響、社会的な被害について述べました。

これまでの法廷で8人の原告、2名が映像で意見陳述をしたり、尋問に答えたりしました。この身体的状況と毒ガスとの関連は医師の証言もありました。この中で、これまで呼吸器障害、皮膚疾患が中心だった毒ガス被害の症状がそればかりではなく、その他の内科疾患、神経障害にも及んでいることが明らかになりました。視力の低下、目が痛い、頭が痛い、疲れやすい、頻尿、記憶力の低下、勉強ができない、血糖値の異常などの所見が原告の症状からはっきりしました。検診の結果、藤井医師の所見では呼吸器症状では43人中、21人に異常がありました。これはかったん培養検査でわかりました。しかも状況は深刻化していて、予想以上に悪くなっています。発ガン性の危険も指摘され、今後の悪化を防ぐための治療はかかせません。

神経内科の橘田医師の所見では、自律神経の障害がみられ、力がでない、ひんぱんにトイレにいく、などが就労不能の原因になっていると指摘しています。体温、血圧の異常もあり、CVRR検査では、高次脳機能障害もみられると言います。記憶力の低下や目の異常もありました。干さんは事故前には刺繍が得意でしたが、目の見え方の異常で、刺繍をするどころか寝たきりになってしまっています。このような重篤な状態になっている原告らに対して適切な医療体制が必要です。

学校生活や家庭生活も深刻です。陳紫微さんは事故当時10歳でしたが、毎日楽しく学校も家でも生活していましたが、事故後、父と母の関係悪化に悩んでいます。楊樹茂さんは子どもの進学を断念しています。劉国安さんは食卓も別で、一日リビングで過ごし、心が病んでしまったと思っています。

国は、客観的な立証がない、と主張しますが、原告の現実を目の当たりにして、そんなことが言えるでしょうか。平和な時代に生きているのに、毒ガス被害者というレッテルをはられてしまって人生を狂わされたのです。この風評から逃れるために名前まで変えた馮嘉燕さんは「人間の命をもてあそぶな」とこの法廷で述べました。

<相互保証論について>

山下基之弁護士は、国側の主張する「相互保証論」に反論をくわえました。

国側は、中国の国家賠償法には、精神被害についての取り決めがない、上限も決まっているなどと主張しています。日本の国家賠償法の第6条は、この規定が書かれていますが、そもそもこの法は憲法違反の疑いがあります。憲法第17条は「なにびとも・・・」と国籍を問わず、だれにでも国家賠償を請求する権利があることを書いています。原告は日本の国家の行為によって、中国で被害にあいました。現在の人権保障の考え方をすれば、国の主張は失当です。中国でも、現在精神的損害についての国家賠償を検討していて、明文化の動きもあります。実務的には、これも認められています。国際社会での位置を考えるべきです。

<総括>
最後に、小野寺利孝弁護士から、裁判所にむけて、総括的な意見が述べられました。

平和な時代におこった事故で被害にあった原告は、真相を知りたい、と訴えました。しかし、政治決着がはかられ、日本政府は今日まで被害者に謝罪していません。原告らは提訴する以外に道はなかったのです。弁護団は被害のすさまじさを前にこの原告の要求に応えようと調査を重ね、事実を明らかにする活動を続けてきました。しかし、被告・国の態度は遺憾の極みでした。

原告の被害事実の認識は訴状段階と比べても飛躍的に進化しています。被害事実が正確に判決に反映されることを強く望みます。その判決が日中両政府の認識を変える力になるはずだと信じます。

今、原告らの一生を狂わせた加害について、一体誰が法的責任を負うべきか、ということです。裁判官はこの問いかけに答えてほしいと思います。生涯にわたる充実した医療支援と人間の尊厳を保持するに足る生活支援が不可欠であることは誰の目にもあきらかです。判決で勝利するだけでは不十分で、現在の民主党・社民党・国民新党の連立政権は、判決を真摯にうけとめ、新支援策を創設するという政治判断があるという強い期待を抱いています。これは近時のハンセン氏病訴訟、中国「残留孤児」訴訟、トンネルじん肺根絶訴訟、C型肝炎訴訟、原爆訴訟といった制作形成型訴訟は判決を契機に国の政策の抜本的転換をもたらしました。私たちの期待は輝かしい成果をもたらした司法への信頼に基づきます。どうか、原告らの生きる唯一の希望の光を来春しっかり輝かせてください。

第13回口頭弁論(2009/11/19)

6月 29th, 2010

3人の本人尋問、幸せな人生と家族の団欒を返して

駐車場の工事現場の土の中に毒ガスのドラム缶があった・・李双義さん

最初の尋問は李双義さんです。尋問を担当したのは山下弁護士です。李さんの答えた要旨です。

私は1969年8月4日、5人兄弟の4番目として生まれました。ちょうど誕生日である2003年8月4日朝7時から第一現場である地下駐車場の工事現場で作業を始めました。畢海岩さんから作業を引き継ぎました。地下駐車場予定地の掘削作業です。その作業は半分ほどすすんでいました。地下3mほどのところに5本のドラム缶が埋まっていたと畢さんから聞きました。そのドラム缶は予定地の北西角に置いてありました。掘削したところの土が一部黒ずんでいました。作業を続けるうちにカラシの匂いが強くなりました。タオルを顔にまいて作業を続けました。そのタオルは畢さんが身体をぬぐったものでした。

ユンボの運転手は14年やっていました。1989年21歳で特殊免許をとりました。その時働いていた会社の社長が私の仕事ぶりをみて黒竜江省労働局に便宜をはかって申請してくれたものです。3年間レンガの精製工場で働きました。1992年義理の兄の会社、1994年新栄有限公司に移りました。年収は4万元ほどありました。ユンボの運転手は体力が必要です。小学校の時からバスケットの選手をやっていました。1988年には軍隊にはいっています。1993年に結婚、その年に男の子が産まれました。子どもが産まれて父親としての責任を感じるようになりました。

その子どもは今ハルピンのコンピューターの専門学校に行っています。学費は年15,000元かかりますが、友人から借金しました。事故に遭わなければ成績もよかったし、大学に行かせたいと思っていました。息子が言うには「高校・大学のコースは時間もかかるし、お金もかかる。家にはお金がない。一日も早く技術を身につけ、稼ぎたい」というのです。妻の態度も事故後変わりました。ぐちやうらみごとを言うようになりました。今はよくしてくれていますが・・・。今は妻の収入だけでくらしています。月収は1500~1700元ほどです。治療費が月に3000元ほどかかりますが、借金で工面しています。

今、股関節が壊死し、半月板の損傷、骨沮喪症といわれています。座っている時間が長いと腰が痛くなります。しゃがむことができず様式トイレでないとできません。落ちているものを拾うのも痛いです。医者からは若いのに60歳ぐらいの骨だといわれました。仕事をしたくても体力がついていかずできません。病院に入院している時、王成さんと亡くなった李貴珍さんと同室でした。目に包帯をされていて見えませんでしたが、声は聞こえました。痛くて叫んでいる声が聞こえ、とても怖かったです。目の包帯は10日ほどでとれました。今も目の前に霞みがかかっているように感じます。事故後、毒ガス被害は感染すると言われ、友だちが離れていき、とても寂しく孤独感を感じました。妻は事故に憤りを感じています。夫が仕事ができず、幸せな家庭をこわしてしまった、と言っています。私は障害者になり、治療に専念しています。妻はいたわって面倒をみてくれています。感謝しています。

日本政府に強く求めます。一刻も早く毒ガスを処理し、同胞が二度と被害にあわないようにしてほしい。

毒ガスで汚染された土を知らずに土嚢につめていた・・・施青さん

昼食をはさんで午後の尋問は施青さんからです。尋問担当は南弁護士です。施青さんの答えた要旨です。

私は1951年生まれです。チチハル北方の農村で生まれました。経済的に苦労し、食べるものも事欠く状態でした。1972年結婚し、22歳の時に長女、28歳の時に長男が生まれ、とても幸せでした。農業をしていましたが、39歳の時に小さな雑貨店を開き、廃品回収業も始めました。農業だけでは豊かな生活ができないと思ったからです。子どもたちと年老いた親のためでした。2000年からチチハル市内に出稼ぎに行くようになりました。息子が結婚し、二世帯住宅を建てるために借金をしたからです。借金は7000元です。出稼ぎは工事現場でセメントを運ぶ仕事です。ふだんは工事現場で50kgほどのセメントの袋をミキサー機まで運び、流し込む仕事をしています。一日にこの袋を200~300ぐらい運びました。朝の4時から夕方の6時まで仕事をし、残業もありました。

事故の日、昼間(朝4時から夕方6時まで)は5階建ての建物工事のコンクリート運びの6番現場で作業をしました。事故があった2番現場の地下駐車場工事の現場では夜の8時から真夜中の0時まで働きました。掘った土がまわりに積み上げられていましたが、それが中に流れ込まないように土嚢を積み上げる仕事でした。土を袋に詰めていきます。シャベルで土を救う人がいて、袋を口をあけ、その土を詰め、運ぶ人の背中に渡していました。シャベルで掬った土が私の身体にたくさんつきました。5日になって、左足のすね、右足、陰嚢に水泡ができました。食あたりかな、と思っていましたが、リーダーの陸さんから病院に行くように言われました。203病院に103日入院しました。病室には解放軍が見張りにたっていて、恐怖を感じました。いつも被害者の声が聞こえていました。うめき声で声がでなくなった人もいました。妻につきそいを頼みましたが「うつるから・・」と言われて断られてしまいました。

退院して村に戻った時は、収穫した大豆を脱穀する時期でした。手伝おうとしましたが、力が出ないのです。両手に力がはいりません。2~3回やりましたが、そのあとできなくなりました。簡単な作業もできなくなったのでとてもつらいです。日本のことをうらみました。日本軍が毒ガス兵器を残さなければこんな自分にはならなかった、と思いました。息子が「お父さん、本当に仕事ができないの?なまけているのではないか」と言いました。力がでない、足もむくんでいる、仕事ができないのです。息子を叱ったので、それからは言いません。今は朝起きて、孫娘を幼稚園に送り、テレビなどをみて、昼にまた孫を幼稚園に迎えに行くという日々です。

今の症状です。のどにはいつも異物がつまっているように感じています。息が苦しくなることもあります。胸も痛くて苦しいです。足のすね、陰嚢はいつもかゆい状態が続いています。薬を常用しています。目もかすんでいます。光を見ると目が痛くなります。事故後、風邪を引きやすくなりました。月に2~3回ひくという状態です。身体もむくんできて、水を控えています。1日に20回もトイレにいきます。前にはなかったことですが、下痢が続き、汗もでるようになりました。感情の動揺があり、記憶力も低下したと感じています。性生活もできなくなりました。

娘夫婦にいわれ、娘のいる除州に移りました。娘は花屋をやっていますが、花に水をやる程度の手伝いしかできません。デッキチェアに横になっているだけです。泥のようになって力がでません。テレビをみているだけです。働いている人を見ると自分は何もできず、イライラします。自殺しようとしてはさみを隠していました。夫婦ゲンカの時自分で刺して死のうと思っていました。娘の夫の親が発見し、とりあげ説得してくれました。これから生きていくことを思うととてもつらいです。妻も糖尿病を患っています。息子のところも経済的に困難です。病院に行くと入院しなさい、と言われますが、入院費が高くて入院できません。薬でなんとかしています。一番つらいことは仕事ができないことです。

日本政府には、被害をおこした兵器を取り除いてほしい、私の身体と心の痛みは化学兵器のせいでおこっています、家族の団欒も幸せも取り戻して欲しい、私のような被害者を出さないようにしてほしい、と言いたいです。裁判所は一日も早く被害者のために正しい判決をだしてほしいです。

毒ガスのドラム缶が転がされたところに座っていた・・・王立冬さん

最後は王立冬さん(尋問当日、具合が悪くなり病院で診察を受けてから裁判所に到着)(尋問担当の穂積弁護士から)コーディネートしている人が今朝迎えに行くと、ふとんをかぶって寒い寒いと言っていたそうです。来日した3日前はそうではありませんでした。

 ~~ここから本人~~

2日前から下痢、頭痛が続き、力がはいらず、めまいもあり、暑くないのにあせをかきます。病院で解熱剤・頭痛薬・はきけ止め・整腸剤をもらってきました。

月に2~3回風邪をひきます。一回症状がでると回復するのに7~8日かかります。月の半分以上は体調が悪いのです。被害前はこんなことはありませんでした。(今日の治療費は診察に6636円、薬に1953円、計8589円かかりました。弁護士から)中国では看護士に家にきてもらい点滴を打ってもらい、200~300元かかります。

2002年にチチハルに引っ越しましたが、それまではチチハルから100キロほど離れた克山県に住んでいました。そこはたいへんな田舎です。両親と妻と4人ぐらしでした。母は呼吸器の重い病気にかかっていました。三輪タクシーの運転手をやっていました。最高で月に2000元の収入がありました。競争が激しくなって月に1000元稼ぐのがやっとになりました。より良い生活をしようとチチハルに移りました。両親は田舎に残しました。チチハルでの仕事は鉄くずの回収です。仕事は順調でした。荷台付き三輪車で回収所を回って鉄くずを回収するのです。一日に500kgの鉄くずを運びました。一回では50kgもの鉄くずを持ち上げて荷台に積み込みます。30~40の回収所と取引がありました。時には廃品回収所の仕事も手伝い、信用を広げました。月に3000元ほどの収入があり、親に月300~500元を仕送りしていました。将来はチチハルに家を購入し、親を呼ぼうとしていました。母も喜んでいました。あと2~3年で実現できると思っていました。

2003年8月4日、朝4時から回収所を回っていました。午後1時頃、牛海英さんの回収所に着きました。強いカラシの匂いがしていました。鉄くずの量が少なかったので、着いてから座って本を読んで待っていました。2~3時間して鉄くずを回収して次に向かいました。夜家に帰ってからおしりに水泡ができました。妻と義父がみてくれました。マッチ棒の頭ぐらいの水泡だと言っていました。入院した後に牛さんから「毒ガス缶が転がされた所に座っていた」と聞きました。8月6日に203病院に入院しました。ピンセットで水泡をつまみ、腐った肉を手術用のナイフで削るのです。これを麻酔なしでやられました。

退院後、仕事を再開しようとしましたが、三輪車に乗れないのです。力がはいらず、汗もでます。得意先を回ると「もう来ないでくれ。アレがうつる」と言われました。うつらない、と言ってもダメでした。警備員の仕事に応募しましたが、「なぜ若いのにこんな仕事をしようとするのか」と聞かれ、正直に言うと採用してくれませんでした。それから田舎に帰りました。田舎に戻った時、母が泣きました。「息子の一生は台無しになってしまったのか」父も隣で涙を流しました。

現在の症状です。水疱のあとは黒っぽくなって痛みがあり、いつもかゆいです。長く座ることが出来ません。自転車にも乗れません。重い荷物も持てません。米袋やガスボンベも持ち上げられません。夜になると咳がでます。記憶力の低下も感じています。買い物を頼まれても種類が多いと覚えられないのです。以前はなかったことです。

生活はとても苦しく親の年金が月に600元あるだけです。食生活をきりつめ、節約をしています。肉や魚なしで野菜ばかりです。いつもの楽しい笑い声がなくなりました。妻からは「廃物」(中国語で役にたたないものという意味)と言われました。家の重荷は妻が背負っています。今年10月に女の子が生まれました。この子には早く大きくなって母の背負っている重荷を担ってほしいと願っています。医者になって患者の苦しみを解消してもらいたいというのが希望です。

(弁護士から本日本兵が日本政府にあてた報告書を見せられて)チチハルに出て来なければと自分を責めていましたが、もし日本政府が責任をもって処理していれば被害はおこりませんでした。日本軍が残した毒ガスを徹底的に撤去して、二度と事故がおこらないようにしてほしいです。私の人生、家族の人生を狂わせたので、医療と生活を保障してください。

第12回口頭弁論(2009/10/19)

6月 29th, 2010

楊樹茂さん本人尋問で、胸悶(胸が圧迫され、息が苦しくなり、体も痛くなる)

はじめは楊樹茂さんの本人尋問です。担当は富永由起子弁護士です。富永さんは、単刀直入に被害事実から尋問にはいりました。楊さんが答えた要旨は次の通りです。

私はひまわりの種を加工する工場を経営していました。自宅兼工場が建設途中でした。自宅の庭にはひまわりの種を加工する機械を庭に置きました。2003年8月4日にトラック5台分の土を買いました。自宅の庭にこの土の山が5つできました。忙しかったので、この土を使っての作業は8月11日におこないました。土の山に昇り、スコップで土をまわりにまきました。その日のうちに右足のかかと、くるぶしの外側、内側、左足のくるぶしの外側に最大3cmほどの水疱ができました。次の日もそのままにしていたら、水疱はだんだん大きくなり、色も濃くなり、目にも異物がはいったように感じて、8月14日に203病院に行きました。そこでは、水疱をつぶす、点滴をするためにベットにしばりつけられる、などの治療をしました。入院は3ケ月に及びました。医者からは「治らない」と言われました。退院して仕事を再開しようとしました。生活があるので、仕事をしなければならないと思いました。しかし、毎日だるさがあり、汗もかき、頭痛もします。

ひまわりの種を商品にするのは、まず種を煎って、送風機で乾燥させます。煎る時の火力も調節しなければなりません。一時も目を離すことができないほどたいへんです。事故に遭う前は一回30kgを30分ぐらいでできたものが、体力がおちて、40分ほどもかかりました。頭痛がして、汗が出て、気持ちがイライラします。力がはいらないのです。事故前には一日400kgもつくっていました。仕事を再開しようとした時、ためしに200kgの種を作りました。次の日に得意先をまわりましたが、誰も声をかけてくれず、商品もまったく売れませんでした。朝7時から午後3時までスーパーや商店、露天商をまわりましたが、一軒も買ってくれませんでした。私が毒ガスの被害者だということが報道され、わかっていたので、買ってくれなかったのです。つらくて悲しかったです。このひまわりの種はゴミとして捨ててしまいました。家に戻り、ベットに横になり、起きられませんでした。もうこの仕事はできないと思いました。

妻もつらい思いをしています。私は他の仕事も探しました。工場の門番のような仕事を探しましたが、雇ってくれるところはありません。 胸悶の症状についてお話します。胸が圧迫され、息が苦しくなり、体も痛くなります。汗が全身に出て、特に手のひらやひたいにでてきます。こうなると、頭痛がしたり、頭がしめつけられるように感じたり、手に力がはいらなくなります。手首がいうことをきかなくなります。こういう症状はいつでるかわかりません。症状がでると気持ちがイライラします。居ても立ってもいられないのです。昔バスケットをやっていましたが、今はまったく体が動きません。

物忘れもひどくなり、買い物に行っても全部そろえられないこともあります。子どもに言われてもできないこともあります。息子の食堂を手伝っていますが、注文をとっても忘れてしまい、やらせてもらえません。以前はこんなことはありませんでした。80軒の得意先を回っても記憶に問題があったことはありません。

経済的にも大変です。事故前は月に4000元から5000元の収入があり、生活には問題ありませんでした。貯金もありました。今は妻のアルバイトの収入が中心です。私の薬代が月に7000元ほどかかります。親戚から借金をしている状態です。借金は20万元もあります。事故の翌年次男は高校を中退しました。大学進学の希望がありましたが、その希望も実現しませんでした。長女も高校を中退しました。子どもからは相談はありませんでした。いきなり学校に行かなくなったのでわかったのです。経済的な理由です。薬も最低限しか買えません。痛み止めぐらいです。免疫力の低下が言われていますが、食事もきちんととれません。症状は日に日に悪化しているように感じます。

父は地主階級だったので、苦労しています。小さい時は貧しかったけれど、努力して両親にいい生活をさせたい、子どもにも良い教育をさせたいと思っていました。この夢が実現寸前になっていたのです。自宅兼工場が完成間近でした。今、父がこんな私をみて、家計を少しでも助けようとゴミ拾いをしています。

私はかつて幸せで安定した家庭がありましたが、今はすべてありません。自分自身、これで終わりにしようと思うこともありました。両親と子どものことを考えるとそれもできませんでした。健康な身体をとり戻したいと思います。この法廷で公正を取り戻したいです。

橘田医師の証人尋問・・・化学物質が血流を通って全身に回っている、毒ガスが原因で神経障害がおこっている

午後は、まず橘田亜由美医師の証人尋問からです。主尋問の担当は佐藤香代弁護士です。最初に「神経内科」についての質問からはじまりました。神経内科というのは何かということを、橘田さんはわかりやすくていねいに答えていました。概要を書きます。

神経内科というのは、脳や脊髄、自律神経のなど高次機能障害についてみます。心療内科、精神科とは違います。心療内科はノイローゼなどの心因性の問題を扱います。精神科というのは、統合失調症などの症状を扱います。私が神経内科になってから5年で、月に400名ほどの患者をみています。

神経の分類と機能についてお話します。中枢神経と末梢神経があります。中枢神経は大脳・脊髄などで高次機能障害にかかわります。末梢神経は自律神経と体性神経にわかれます。体性神経は感覚神経と運動神経に分類されます。

(1)感覚神経のことからはじめます。毒ガス被害は患部だけの神経だと思っていました。しかし、大脳・小脳にも障害があることがわかりました。触覚検査・痛覚検査をしました。皮膚のびらん面の異常感覚だけではなく、全身に異常感覚が広がっています。手足の先端、右半身に異常感覚がある人もいます。化学物質が血流を通って全身に回っているのです。これは水俣病、ヒソ中毒の患者にみられるものです。

(2)運動神経についてです。握力検査、徒手筋力検査をしました。筋力は6段階にわかれます。腕の関節が重力がある状態で曲げられるものを5、まったく曲げられないものを0とします。多くの被害者が3ないし4の状態でした。筋力が弱っていることを示しています。理学療養士が検査をしました。握力については、易疲労性を調べます。10回連続で検査をして、普通は5回までは握力は低下しないのです。しかし、5回検査をしなくても握力の低下がみられました。さらに、もともと握力が低いのです。日本人の平均握力は40~45歳の男声で49ですが、今日尋問にたった楊さんは16.8でした。

(3)自律神経についてです。自律神経というのは副交感神経ともいわれ、血圧をさげたり、脈拍数を調節したりします。この異常については冷水テストで確かめます。冷水に1分間手をつけていて血圧を調べます。普通は血圧があがります。10以上の血圧上昇が普通です。この時血圧上昇が10以下の人は異常と診断されます。またジルマテストといって涙腺の量を調べるテストもしました。涙が少ないのです。自律神経の異常で分泌が少ないのです。ドライアイとよばれる症状です。

自律神経関連では、①発汗の異常です。暑い時など体温調節で発汗しますが、被害者の多くは手のひらに汗をかいたり、暑くないのに汗をかくひや汗のような汗がありました。②頻尿もあります。被害者は比較的若い層が多いので前立腺肥大は考えにくいです。それでも頻尿がありました。このふたつは検診中に現認しています。③インポテンスについても自律神経の関連だと考えられます。性的興奮でも勃起しないのです。この部分では、多角所見は難しいのですが、自律神経障害がでにくい若い集団で多くのデータが得られたのです。

これらの診察から、毒ガスとの関連についてですが、被害後に症状が出たということから考えれば、毒ガスが全身に回っておこったと考えるのが妥当です。生活を疎外する要因になり、就労の疎外要因にもなっています。さらに回復可能性ですが、被爆後6年たっていてもこういう症状がでているということで永続的にこの症状が続くと考えられます。 

(4)高次機能障害についてです。記憶は大脳が司っています。記憶力の検査をするには三宅式検査を行いました。有関係対語を10組提示し、くりかえしてもらいます。海・船、春・秋などというものです。3回やればだいたい全部言えます。しかし、2個、3個ぐらいしか言えないという被害者がほとんどでした。これは短期記憶障害となります。被害者の多くは短期記憶障害と判断されました。毒ガスの成分が大脳に侵入したと考えられます。血液脳関門というバリアがあり、有害物質を脳にいれない機能がありますが、これを超えてしまったということです。知能検査で知能の低下は軽度なのに、記憶障害が目立っています。つまり脳の全般的な力が低下するのではなく、記憶力の部分が低下しているのです。マスタード被害と記憶力障害について記された文献にも80%の被害者に記憶力低下がみられたというのがあります。

また、ものがゆがんで見える、実物より小さく見えるなどの視覚障害もみられました。まともに指をあわせられない視覚失調、目で見ただけでは判断できないでさわってわかるという視覚失認、色盲でないのに色覚障害があるなどというのは大脳性の障害です。脳の広範囲にケミカルな物質がはいったということです。
最後に分類不能の障害についてです。中国語で胸悶(シュンムン)と言われています。少しの労作で発汗し、胸がドキドキしてしめつけられるように感じ、苦しくなって動けなくなる症状です。神経障害の一環だと考えられます。いろいろな自律神経を小さなストレスや刺激されることによっておこります。疲れやすい、力が出ないという易疲労性です。一分間の踏み台昇降やスクワットの検査でも途中でダメになる人が多くありました。

仕事ができない、というのは疲れやすいなど自律神経障害、短期記憶障害と考えられ、被害者の訴えと診断した結果を総合的に判断して自律神経障害と診断してよいと考えます。今後この症状がすすむとは考えにくいですが、二次的に廃用性、筋力低下、抑鬱などで症状がすすむことも考えられます。先例も報告もないのでさらに精度の高い検査たとえばMRIなどをすると良いと思います。そうして原因を明にしてほしいです。さらに被害者は医療的ケアをうけていないので、診察で症状を軽減できるので医療保障はぜひとも必要です。

このあと、国側代理人による反対尋問がありましたが、些末な細かなことを聞くだけでたいした内容はありませんでした。

ビデオ上映・于景芝さん・・・罰をうけているようです。

この日の裁判の最後は今回来日できなかった于景芝さんのビデオ上映です。于さんは自宅の庭を整地しようとして、毒ガス被害にあいました。今年6月に于さんの自宅で撮影したものです。激しく咳が頻繁にでている様子、食欲がでない状態、ベットの上でずっとすごす状況などがリアルに示されました。この中で于さん自身が「入院した方が良いといわれるが、お金がないので家で寝ているだけ」「頭痛がして、頭がしめつけられるようだ」という言葉が印象的でした。

また、ベットの上での検査の様子も映し出されました。色覚異常の検査では、何度も見ていると皆「黒」く見えることがわかりました。また、絵を描いてもらいましたが、その形状を正しく描くことがなかなか難しいこともわかりました。ベットの上にあるものを取ってほしいと言われて、手をだしますが、空をとってしまうという状況も示されました。 ビデオの最後に于さんは「罰を受けているようです。生きていたくありません。子どもたちは杭州に出稼ぎに行っていますが、稼いだお金は皆私のために送ってくれます。私が早く死ねば子どもは楽になります。家には食べ物もありません。夫も苦しんでいます」と言われました。

このビデオは実際の生活の場で原告たち被害者がどんなに苦しんでいるかをリアルにみることができました。証人尋問で橘田先生が証言した事実が映像としても確認することができたと思います。傍聴者はもちろん、裁判官も熱心にビデオをみて被害の実態を肌で感じ取ることができました。

第11回口頭弁論(2009/9/7)

6月 29th, 2010

みんな離れていってしまった、本人尋問で、龍国安さん

原告の龍国安さんの本人尋問です。

龍さんへの尋問を担当したのは井堀哲弁護士です。井堀弁護士はチチハル市内の地図を示し、第一現場である団地の駐車場と龍さんが被害にあった民族車体の現場の位置関係を確認しました。龍さんはこの地域で生まれ、小さい時からこのあたりの状況にとても詳しいのです。

龍さんは1962年生まれです。小さい時、第一現場になった駐車場は軍隊の敷地になっていたと言いました。外からのぞくと土がもりあがったようなところがありました。団地の建て替えがはじまるのは2001年です。それまでは軍隊の施設でした。さらにここは旧日本軍の飛行場があったことはチチハル中の人が知っています。つまりここに旧日本軍の飛行場があり、近くには格納庫が今も残っているということは動かすことの出来ない事実です。この地点に毒ガスが埋まっている可能性は非常に高く、日本政府が97年の化学兵器禁止条約締結後、その気になって捜していればみつけることができたはずのものです。

ここから龍さんの事故前の生活の話しになりました。龍さんの答えの概略です。

私は若い時、種苗会社の運転手をやっていて月100元ほどの収入がありました。92年にトラックを買って自立しました。運送業をはじめたのです。遠くから野菜や果物を運んで地元におろしました。2000年に民族車体に移りました。この会社は貨物輸送のトラックを購入した人が登録するときの手続きをドライバーにかわって代行する会社です。この会社は父が創立した会社で、従業員は10人ほどいました。そのうち5人は親族です。

登録後も保険の手続きなどのアフターサービスをしていました。私の仕事は公安局との信頼をとりつけることが中心でした。許可後の使用料などの相談にものりました。副業として運送業も手掛けていました。ドライバーもいて、順調に進んでいました。事故前の収入は年30万元ほどになっていました。5人家族で3人の女の子と幸せな生活をしていたのです。88年に結婚し、その後離婚して、92年に再婚しました。夫婦円満で、私は仕事、妻は家で家族の世話ということで、家族旅行にもよくいきました。地元の観光スポットにもよく行きました。ハルピンの氷祭りにも行ったことがあります。事故前は人もうらやむような充実した生活を送っていました。

2003年8月4日朝、民族車体に行きました。向いの団地から土が運びだされていくのを見ました。トラックの運転手に交渉して、トラック5~6台分の土を購入しました。その土で会社の敷地を整地しようと思ったからです。その後商談をして正午ごろ戻りました。駐車場に1.5mぐらいの土山が5~6個できていました。それから午後五時ぐらいまで整地作業をしました。体に異常を感じたのは六時すぎに帰宅した後です。全身のかゆみ、のどの不調、目もかすんできました。翌日出社すると、他の人の目も赤くなっていました。8月6日午後、皮膚に異常を感じました。両足のつめの色が変って黒くなっていたのです。14~20日まで203病院に入院しました。隔離されて、どんな病気かという説明もなく、失明するのでは、という不安がずっとありました。また他の患者の絶叫も不安を増幅させました。

退院後、体調がすぐれず、もとの仕事ができなくなりました。マス・メディアの報道によって毒ガスに感染したことが知られ、まわりの人が避けるようになりました。職場に行くと、親戚や同僚もあいさつをしただけで消えてしまうのです。公安局の人たちも避けるようになりました。運送業もやめてしまいました。雇ったドライバーもやめてしまい、車も売り払いました。体の症状では、目・喉の痛みに加え、頭がボーッとして混乱し、集中して物事を考えられなくなってしまったことです。いつもイライラしています。よく風邪もひきます。

くらしぶりの変化についても大変です。お金は妻に頼るしかなくなりました。以前は親戚の人のお金の工面をしていたほどでしたが、すっかり変ってしまいました。これまで週末に親戚が遊びに来ていましたが、今は居留守を使っています。労働能力がなく、仕事ができないし、収入もありません。妻とはよくケンカをするようになりました。家族とは別々に食事をとっています。下の娘に「お父さんは毒をもっている」といわれたのがショックでした。友だちも離れ、怒りっぽくなったと思います。乱暴な言葉使いにもなり、精神病になったのでは?と思うときもあります。

さびしさをまぎらわすために半年前から犬を飼っています。毎日犬をつれて外にいきます。一日の大半をそこですごします。多くの時間、川をながめてボーッとすごします。自分のことを考えると、被害にあって、人生がダメになりました。無為の人生を送るよりも飛び込んでしまおうと思ったこともあります。三人の子どものことを考えて思いとどまりました。

裁判官にひとこと、戦争中日本軍がやったことで、毒ガスが中国に残りました。被害を与え、家族にまで苦痛を与えています。一日も早く、化学兵器を撤去して平和できれいな環境を。合わせて被害者と家族への謝罪と補償もお願いします。

尋問を終わり、龍さんは傍聴席にむかって深々と頭を下げました。満場の暖かい拍手があったのは言うまでもありません。

藤井医師の証人尋問

レントゲンX線、良くなった例は一件もない、二度のハルピン検診で

龍さんの本人尋問に先立って、医師である藤井正實先生の証人尋問がありました。尋問担当は三坂彰彦弁護士です。すでに提出された藤井医師の意見書のポイントを確認するということで尋問がはじまりした。藤井医師が答えた内容を要約して示します。

私は、芝病院の副院長として、一般内科を中心に職業呼吸器、産業中毒などを専門としています。遺棄毒ガス被害者の検診にかかわるきっかけになったのは、これまでもじん肺訴訟にかかわってきたことから、2005年8月はじめてチチハルの被害者の検診をしました。皮膚障害をもっている方たちでした。胸部レントゲンもとりました。この人たちが就労できない、というのは呼吸器疾患が原因とは考えられません。

2006年3月にハルピンに行き、レントゲン撮影、喀痰検査などをしました。42名の検診をしました。私が直接診たのは30人です。就労できないほどの人がたくさんいました。これまでも産業中毒の人を見てきましたが、化学物質過敏症と似ています。自律神経系ではないかと感じました。2008年3月に再び、ハルピンで検診しました。その時は神経内科の検査もしました。大脳の問題で高次機能障害の恐れもありました。

イペリットによって呼吸器障害がおこっていることは争いがありません。慢性気管支炎になっています。被爆後数年で「慢性」の症状で出ているのです。気管支の粘膜をただれさせています。一度おきた炎症はなかなか治りません。非可逆的で、症状は同じ状態か悪化しているのです。原告41名のデータがあります。せき・痰の状況はフレッチャーの基準で慢性気管支炎と診断できます。レントゲンX線の異常所見は21名、06年から08年にかけて良くなった例は一件もありません。当初の被爆で重篤だった人ほど喀痰検査の異常が多くなっています。呼吸器検査でも軽度の末梢気道閉塞の人もいます。毒ガスによる細い気管支の炎症がおこっています。

免疫機能の低下について述べます。抵抗力の低下については、被爆直後に日本政府が調査した報告書でもあきらかです。骨髄を抑制し、免疫細胞を減らしています。肝機能障害についても数人の方にみられました。解毒をするというのが肝臓の機能ですが、これが毒ガスによって侵されているのです。

国側の反対尋問

というところで、国側の反対尋問にうつりました。国側の代理人は、被害者の症状が毒ガス被害との因果関係が証明できるのか、という視点にたって、ネチネチと藤井先生に尋問していましたが、藤井先生は、自分でおこなった検診と医師の識見をもって断固として国側代理人の尋問に答えていました。国側の意図は藤井先生には通じませんでした。

第10回口頭弁論(2009/7/29)

6月 29th, 2010

馮佳縁さん、陳紫薇さん、陳栄喜さん、白玉栄さんの4人へ尋問

7月29日、東京地裁の103号法廷は広い法廷にいっぱいの傍聴者で埋まりました。若い人たちの傍聴が目立ちました。昼食をはさんで午前・午後にわたる法廷では、陳栄喜さん、陳紫薇さん、馮佳縁さんの3人の本人尋問と、佳縁さんのお母さんの白玉栄さんの証人尋問がおこなわれました。

陳栄喜さんへの尋問

まず、午前の尋問は陳栄喜さんの尋問から始まりました。尋問担当は南典男弁護士です。陳さんの事故前の仕事の状況から明かにされました。事故前、陳さんは国営企業の建設現場の責任者として働いていました。70人ほどの労働者の管理・監督などの仕事です。月に2000元ほどの収入がありました。7階建てのアパートは完成すると800元の賞与が出ました。仕事上の夢は小さな会社の社長になることでした。そうすると定年後も基本給の80%を支給されることになっていました。
 次に事故の状況について尋問に答えました。自分の庭を整地するために土を買いました。この土を運ぶ途中に毒ガスの被害にあいました。この作業を手伝った近所の人も、この土の上で遊んだ娘の紫薇さんも被害にあいました。この土が汚染されていたなんて想像できません。

その後203病院で治療を受けました。皮膚が糜爛し、その皮膚をきりとっていく手術をうけました。このまま死んでいくのか、と思いました。命が大丈夫、と思えたのは、入院後20日もしてからです。退院後も体調は良くありません。2007年7月には、血糖値が高いといわれて1ケ月半入院しました。これは日本の検診でわかり、帰国後入院したのです。インシュリンの注射を受けています。2008年5月には、心臓発作で救急車で運ばれました。今も定期的に通院検査をしています。血糖値、心臓の他に肺、腎臓、肝臓、気管支、目の病気、インポテンツがあります。症状は改善されていません。風邪もひきやすく、一ヶ月に2~3回ひきます。気管支が苦しくなることも多く、目はいつもゴロゴロしていて、充血しています。娘の紫薇さんの治療費とあわせると年間10万元にもなります。

仕事は事故で解雇されました。復帰しようとしましたが、疲れて仕事ができませんでした。高い建物の上り下りができないのです。一日やりましたが、ダメでした。就職斡旋所に行きましたが、私のできる仕事はありませんでした。この5月から3ケ月の約束で測量の手伝いをしています。おばの夫の紹介でやっています。

事故前は夫婦仲もよかったのですが、私に収入がない、治療費がかさむ、経済的負担も大きい、夫婦生活もできない、ということで、離婚しました。紫薇さんが泣いて叫びました。はじめ、私といっしょに生活しましたが、その後、紫薇は母と一緒にくらしています。私は一人ぐらしです。

紫薇さんについても尋問に答えました。事故前は成績もよく、活発な女の子でした。事故後ひとりぼっちになることが多く、スポーツもできないし、成績も下がりました。先生の話を聞いても覚えられない、というのです。今年受験に失敗し、職業学校にすすみます。

今後のことについて尋ねられ「まったく考えられない」と言いました。今の仕事1日65元です。薬代に月8000元、生活費に月12000元かかります。中国政府から95万元もらいましたが、今8万元残っているだけです。これからどうするかも考えられないのです。

最後に裁判所に訴えたいこととして発言がありました。毒ガスの被害は娘と二世代にわたってうけました。幸せをこわされました。事故後、身体も弱くなり、労働能力もなく、収入もありません。家族を養うてだてもないのです。娘の一生の幸せも奪われました。父親として、娘に対する期待と夢がなくなりました。一番つらいのは妻と離婚したことです。人並みの父親の責任、夫としての義務も果たせません。今、生きる意欲さえも持てないのです。日本政府は私たちの現実を直視して、一日も早く解決してもらいたい、同じ思いの被害者にきちんとした対応ができるよう裁判所は公正な判決を求めます。

陳紫薇さんへの尋問

続いては娘さんの紫薇さんへの尋問です。担当は菅野園子弁護士です。まず事故前のことから尋問が始まりました。紫薇さんの答えです。

事故にあったのは、小学校3年生、9歳のときです。毒ガス汚染の土とは知らずに遊んでいました。それまでは夕方遅くまで外で遊ぶ毎日で「おてんば」と言われ、わんぱくなこともしたし、比較的活発でおしゃべりでした。走ること、バレーボールが好きでした。運動会でも一等賞をとり、リレーの選手にもなりました。当時は将来体育学校にはいってスポーツ選手になりたいと思っていました。

事故後、2003年11月に退院して、風邪をひきやすくなり、疲れやすく外に遊びにいかなくなりました。しばらくは学校に戻れませんでした。2ケ月後に戻ると、みんなは私のことを避けるようになりました。「うつるのではないか」と言われました。悲しかったです。勉強も覚えるのに時間がかかるようになりました。授業中もぼんやりすごすことが増えました。記憶力が落ちたと感じています。体育の授業に出席はするのですが、走ることができませんでした。せきやたんがひんぱんに出ます。汗が頭、額、鼻の頭、手のひらにでます。風邪の予防の薬を飲んで、できるだけ休んでいます。中学校は家から遠い小学校の同級生がいない中学に行っています。新しい友だちをつくろうとしました。先生も事故のことは知りません。仲間はずれにされたり、避けられたりすることを恐れています。毎日ウソをついているような気持ちです。だまっているのもつらいですが、みんなが私のところから離れていくのがこわいのです。

家族については、事故前はとても楽しい家族でした。事故後この関係が大きく変わりました。父はよく風邪を引くし、前は仕事を休むようなことはありませんでしたが、仕事を休んでいます。父と母もよくケンカをするようになりました。冷えた関係になってしまいました。両親の不仲は誰にも相談できません。2007年に離婚のことを言われました。とても悲しいことでした。母を説得して戻ってもらいました。父と母は口もききません。

進路のことですが、職業学校に入学することにしました。吉林外国語学院に進学します。私のいる中学からは70~80%が普通高校に進学します。私は普通の高校にはついていけないと思いました。病院の医師になりたいと思ったこともあります。しかし、あきらめました。とても悲しいです。事故にあわなければ、と思うこともあります。新しい環境でがんばってみようと思います。将来はとても不安です。

私の身体は元に戻りません。父の身体も戻りません。家庭も戻りません。将来のために公正な判決をお願いします。

昼食後、午後の尋問にはいりました。

馮佳縁さんへの尋問

佳縁さんへの尋問担当は佐藤香代弁護士です。まず事故のことを尋ねました。

今は16歳ですが、10歳のときのことです。事故の日、第五中学の校庭で遊んでいました。たくさんの土があると聞いたので、遊びに行きました。はだしで土の上を登ったり降りたりしていました。その土で船やタンクをつくったりもしました。土の一部を家に持って帰りました。午後1時ごろから夕方まで遊んでいました。夜になると両足が痛み、水泡ができました。とてもこわかったことを覚えています。痛かったです。理由がわかりませんでした。8月6日に203病院に入院しました。水泡の患部をはがしてガーゼをあてるという荒い治療でした。患者が絶叫するうめき声が聞こえました。2003年秋に退院しました。

これで良くなったと思いました。ところが症状の改善はありませんでした。今でも風邪をひきやすいし、息苦しいことがあり、患部がかゆくなります。

学校に行くと「毒ガスに汚染された。彼女に近付くな」と言われました。とてもつらかったです。

事故前は学年で一番走るのが速かったのに、体育の授業が受けられなくなりました。勉強もだんだんついていけなくなりました。記憶力の減退、集中力が落ちるなどを実感しました。成績もよく家でも勉強していましたが、中学3年になり。体調がますます悪くなりました。中学3年では受験もあり、授業の科目も増えます。宿題も多くなります。それについていくことができなくなりました。身体もついていけなくなりました。

今年3月、投げだしたい気持ちになりました。先生の話を聞いていてもどっと疲れ、机につっぷしてしまうこともありました。学校から帰ってもだれとも話したくない、ごはんも食べたくない、という気持ちになりました。高校に行きたいという気持ちが強くありました。大学に行き、いい職業につけば、未来が開けるというのが最終目標でした。しかし、専門学校を選びました。高校に行けば科目も増えるので自信がありませんでした。専門学校の方が科目が少ないのです。これまでは高校に行きたいという気持ちがあったので、残念ですが、専門学校で前向きに努力したいと思います。専門学校はハルピンにあります。環境を変えることになるので良いと思いました。チチハルにいると、みんなが私のことを被害者と知っています。外にでるのはつらいことですが、今年5月には名前も変えました。まわりの人が知らないところで新しい自分をつくりたいと思います。

健康状態は良くありません。夢も失いました。結婚出産もとても心配です。毒ガス被害で未来、理想を失いました。日本の支援者の皆さんにはとても感謝しています。

裁判官には、ごく普通の少女が16歳までに奪われ、残っている自分の苦しみを補ってもらいたいです。二度と戦争が起こらないようにしてほしいでい。
 
日本政府には、中国人の命をもてあそぶな、と言いたい。
佳縁さんの最後の言葉は強く強く聞く者の心に響きわたりました。

最後は佳縁さんのお母さん、白玉栄さんへの尋問です。担当は富永由紀子弁護士です。

白玉栄さんへの尋問

白さんは中学の国語の教師です。佳縁さんのことをお母さんはどうみているか、ということが尋問の中心でした。

佳縁は、休みの日にはよく公園で遊んでいました。他の子より秀でていました。4、5歳のころからアイススケートをやっていて、まわりの人も「この子は天賦がある」と言っていました。3歳のころから唐詩を暗唱していました。親が教えていました。小学校の成績は3段階の優でした。小学校3年生のときは学習委員に選ばれました。運動会ではいつも活躍し、1番でした。子育てで意識していたことは「勉強のことを応援する。スポーツの才能も伸ばしたい」という気持ちでした。2003年9月には体育学校に行く予定でした。体育を職業に持つというあこがれがあり、前途が保障されているということもありました。体育の指導員や体育の教師になれます。体育学校の入試は実技の試験もありますが、合格の可能性がありました。佳縁は目の中にいれても痛くない、人からも好かれる子でした。

2003年8月4日夜から痛みを訴え、深夜には水泡ができてきました。足の甲、裏、土踏まずです。手の甲はまんじゅうのような水泡ができました。足の裏に水泡ができ、土ふまずがふくれあがってそこに水泡ができていました。一晩中眠れなくて夜明けにチチハル第三病院に行きました。そこは漢方の病院でやけどには漢方がいいと聞いていました。最初はやけどだと思ったのです。チチハル市内に毒ガスがあるなんて知りませんでした。

8月6日に203病院に行きました。その日のうちにこの病院から連れ出しました。203病院のベッド、廊下のようすがこわかったのです。周囲は銃を持った警備隊がいました。廊下のあちこちから患者のうめき声が聞こえてきました。患者の患部をはがしたり、はさみで切ったり、ガーゼをあてがったり、という荒治療でした。手続きに回っていたので、佳縁の治療を直接はみていません。戻ってみると、汗はびっしょり、顔は蒼白になっていました。こんなひどい治療は許されないと思い、佳縁を搬入口からこっそり連れ出し、第三病院に戻りました。家族がそばにいて、注射器で膿を吸い取るという治療でした。それでも痛くて耐えられません、見ている方も耐えられませんでした。

現在のようすですが、胸が苦しいと言います。飲む漢方薬やしっぷ薬、点滴などをしています。炎症を抑える西洋の薬も飲んでいます。抵抗力、免疫力をつけるために栄養食品、サプリメント、ビタミン補給剤なども服用しています。薬代に月5000元かかります。退院してから全体として30万元かかっています。中国政府から受け取った給付金は13万元です。

2004年3月に小4に復帰しました。事故前と変わり、人とも話したがらないし、成績も落ちてきました。記憶力、集中力が下がりました。授業中、全身がかゆくなり、集中できないのです。友だちも周囲から去っていき、学校に行きたくないと言い始めました。環境を変えるために引っ越しもしました。近所のお母さんに「あの病気は感染するから近付かないように」と言われたりもしました。病院から出てきたときにマスコミに報道されたので、近所に知られてしまいました。

中学にはいり、佳縁を私のクラスにいれました。クラスでは話しませんでした。彼女はプライドが高く、他の人に知られたくないと思っていしまた。中学一年の時は、他の先生が補習をしてくれたので成績もよかったのですが、中2になって成績が落ちてきました。本人はがんばっていこうと思っていました。しかし、中3になり、科目が増え、朝は6時40分に登校し、夜8時に下校するという状況になり、ついていけなくなりました。姿勢をのばして先生の話を聞いているのが自分では耐えられなくなって机につっぷしてしまうのです。

はじめは大学に行きたいと言っていましたが、ハルピンのコンピューター関連の専門学校に進学を決めました。不本意ながら本人が決めました。その中で彼女なりに勉強してまいす。将来のことはとても不安です。結婚や出産についても本人も不安だと思います。名前を変えて、過去のことを知られないようにしたいという本人の気持ちを尊重し、名前を変えました。

裁判官に対して言いたいこととして最後に次のように述べました。「私の娘は事故にあって、自分の夢・理想がかなえられません。裁判官も一人の人間として考えてほしいです。あなたのお子様が被害にあわれたら、幸せな人生を奪われたとしたら、と考えてください。被害者の立場にたってほしいです。裁判官は正義を重んじ、公正な道理に基づいた判断をしてください」そして「日本政府に対しても歴史の慰留問題を解決してください。中国の大地に遺棄された毒ガスを除去してください。何の罪もない人が被害者になっています。この事故を無駄にしないでください。謝罪・補償をしてください。どんな多額なお金も癒せません。精神面での公正な道理を」と結びました。

第9回口頭弁論(2009/5/11)

6月 29th, 2010

第9回口頭弁論で、被害状況の陳述(2009年5月11日)

5月11日、東京地裁の大法廷は遺棄毒ガスチチハル訴訟の原告代理人の準備書面の朗読がおこなわれました。佐藤香代弁護士からは被害の実態と現状を医学的見地から実証しました。

まず被害直後の悲惨な状況について述べました。

被害者全員が軍の203病院に隔離されました。この状況は事故から11日後に日本政府が派遣した調査団の報告書にも述べられています。この報告書によっても悲惨な状況は明かです。

被害者の中で唯一亡くなった方の状況は次のようです。受診時30%程度だった皮膚損傷が急速に95%に拡大し、ほぼ全身が糜爛するに至りました。血小板と白血球が著しく低下し、重症の敗血症で、急性心不全をおこし、事故後15日で亡くなったのです。

このように初期段階の調査で志望者と同程度の「特重度」に分類された原告は4人いました。この他にこの報告書では、重度16人、中程度11人、軽程度は12人とされました。

佐藤弁護士は、次に一向に改善しない慢性症状について述べました。事故から5年以上経過しても全身に複合的な健康被害をかかえています。

①呼吸器の疾患。毒ガスによる呼吸器疾患花街時間をかけて進行するといわれていますが、多くの被害者がこの症状をまわりがわかるくらいに進行しています。

②免疫力の低下。骨髄抑制の状態にある原告もいます。

③高血糖の状態。事故当時小学生だった原告も高血糖になっています。

④神経障害も深刻です。しびれ等の感覚異常、筋力の低下、自律神経の障害も認められたり、脳に対する生涯である高次脳機能障害も確認されています。

さらにこの総体として「易疲労性の問題」もあります。ほぼすべての原告が「疲れやすい」「動けなくなる」状況を訴え、胸が苦しくなる(胸悶・・・中国語でシュンムン)を訴える状況です。ある原告は「びらんがおきた陰嚢と足首は今もかゆく、湿っています。心まで伝わってくるようなかゆみです。咳はほぼ毎日でます。視力も低下しました。ものがぼやけて二重にみえます。ピントも調節できないし、まぶしさを強く感じます。性的な能力も落ちて、夫婦生活に支障をきたしています。シュンムンが出た時には、深夜でも耐え難く、外にでたりします。睡眠時間も今は3~4時間ぐらいです」などと述べています。

毒ガスの被害は、時間がたってだんだん改善されるというものではありません。毒ガス被害の恐ろしさは心臓疾患です。心臓に異常がある原告の多くは40歳代前半です。そしてもっとも恐れるのは発ガンです。検診を担当した医師も、今後必ず発ガンの問題が浮上すると警告しています。

次に全人生的な被害の状況を菅野弁護士から論述されました。被害者は事故当時学生だった者を除いて全員が就労していました。しかし事故後、易疲労性、筋力低下、眼障害、記憶力や集中力の低下などの複合的身体的被害のために、それまで従事していた仕事を失ってしまいました。

事故の2年前にチチハルに出てきた貧しい農民だった原告は、チチハルで廃品回収の仕事をおこない、鉄屑、貴金属を集め、売却することをおこなっていました。30キロの荷物をもっても平気で、収入も増え、くらしの見通しもでてきたといいます。ところが事故後10キロの荷物をもっても動悸がして休まなければならなくなったり、薪を斧で細かくするだけの作業も5分斗続かない状態で、力がはいらない、全身がだるい、などで就労できなくなりました。仕事ができなくなるということは収入が減っていくということで家族の生活にも影響がでていきます。一家の支え手としての役割を失ったことによる精神的苦痛も広がっています。ある原告の息子さんは大学入試に合格しましたが、経済的な紙上で進学を断念しました。

子どもの状況も深刻です。退院後、復学しましたが、黒板の字がみえない、記憶力が落ちた、風邪をひきやすいなどの状況にくわえ、まわりの友だちから「イペリット中毒」「伝染する」などといわれ、一緒に遊んでもらえなくなったりしています。まわりの風評被害も深刻です。身体的被害への無理解・・・「なまけ者だと誤解」、伝染するという誤った偏見、被害者自身の性格変化などが原因で友人関係の破綻もおこしています。ある原告はまわりの保護者から「登校させるな」という抗議があり、教室でも席を離されて授業を受けるなどによるなどで退学せざるを得なくなった原告もいます。

経済的な状態に言及すれば、収入がないので、政府からの給付金がなくなったら「死ぬしかない」という原告もいます。医療費の問題も大きいです。中国の医療費は高額で、保険制度の適用を受けないチチハル被害者たちは全額自己負担になっています。乏しい収入と莫大な医療費で生活困難は事故前とはくらべることのできないほど悪化しています。この状況は今後改善される見通しはありません。将来への不安をすべての原告がかかえています。仕事のこと、家族のこと、友人のこと、「事故の後、本当にすべてのことが変わってしまいました」と15歳の原告が語る言葉は深い悲しみと無力感を表すものです。

裁判所は深刻な被害を受け止め、救済の手をさしのべるべき、と菅野弁護士は結びました。

このあと報告集会にうつりました。その中で井堀弁護士は、参加者の質問にこたえ、この裁判の意義について「被害者の救済、遺棄毒ガス弾の処理は政治的に解決しなければならない問題です。一方で政治解決のはたらきかけを強めていますが、裁判で勝利することで、政治解決への弾みをつけていくことになります」と述べました。

チチハル8.4事件、訴状「請求の原因」

6月 29th, 2010

3 訴状において原告らが2の裁判を求める理由(「請求の原因」)

日本政府が賠償の法的責任を負う理由につき訴状は概ね以下のように述べています。

① 化学兵器の遺棄という先行行為に基づく危険除去の作為義務
そもそも、本件の原因は、旧日本軍が中国に配備した毒ガス兵器であり(日本政府も認める)、これは旧日本軍が敗戦時に遺棄したものと推測されます。
日本政府は、毒ガスという非人道的な兵器を製造・遺棄し、人の生命・身体に重大な危険を生ぜしめる行為を行った(先行行為)以上、その危険を除去し被害を防止すべき作為義務を負っていたものと言わねばなりません(危険除去の作為義務)。

② 日本政府は被害の予見ができたし、結果回避措置をとることもできた
日本政府としては、中国各地で毒ガスを配備し敗戦時に遺棄を指示した以上、毒ガス被害発生の予見は可能でしたし(予見可能性)、毒ガスが遺棄された危険な地域について情報収集をし中国政府に伝える等の措置をとれば本件のような毒ガスによる悲惨な事故発生を回避することも可能でした(結果回避可能性)。

③ しかるに、日本政府は、敗戦時から戦後60年余の間も、また前記の1999年の日中の覚書以後においても、毒ガスが遺棄されている地域について情報収集をする等の努力をするどころか、却って毒ガス兵器に関する資料を焼却するなどして重要な情報を隠滅・隠蔽する行為を行い危険除去を困難にしてきたのです。
これは、前述した危険除去の作為義務に違反したものであり、日本政府が、被害救済の責任を負わねばならない理由はここにあります。

④ こうした違法行為により、原告らは、毒ガスによる、完治不可能で、進行性・遅発性の重大な身体的被害とともに、就労不能等の様々な社会的・精神的被害をも含めた全人生被害ともいうべき損害を被っており、日本政府はこれに対する責任を負わねばなりません。