すっかり間が空いてしまいましたが、チチハル事件控訴審も大詰めを迎えようとしていますので、遅ればせながら判決文の「続き」を掲載いたします。
前回掲載したのは次の部分でした。
> 第2 当裁判所の判断 (読み直してみると「第3」が正しいようです。「第1 請求」、「第2 当事者の主張」となっていました。)
> 1 請求原因(1)について (ほぼ原告の主張に沿って被害の事実が認定されている)
> 2 請求原因(2)について
> (1) 前提事実
> ア 毒ガス兵器に関連する条約
> イ 旧日本軍による毒ガスの生産
> ウ 毒ガス兵器の中国への配備・保管
> エ 毒ガス兵器の中国における使用
今回は、「請求原因(2)」の続きからです。「請求原因(2)」は「先行行為に基づく作為義務違反による国家賠償法1条1項に基づく責任」を指摘したもので、主張立証にも多くの時間を割いた、中心的論点の一つです。
「その2」では、 「(1)前提事実」の後半を掲載します。
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2 請求原因(2)について
(1)前提事実
オ 終戦時における毒ガス兵器等の処理状況
(ア)武装解除と武器の引渡し
昭和20年(1945年)8月14日、日本は、スイスを通じて連合国にポツダム宣言を受諾する意思を通告した(乙42の13頁)。ポツダム宣言において、日本軍は、完全に武装を解除するものとされた。
同月16日、大本営は、関東軍に対し、「戦闘行為停止のためソ連に対する局地停戦交渉及び武器の引渡等を実施することを得」と指示し、支那派遣軍、第5方面軍にも関東軍に対するのと同様の示達を出し、かつ両軍ともその実施について関東軍と連絡をとるように注意を喚起した(乙41の455頁)。
同月17日早朝、関東軍総司令部は、ソ連軍の進駐に際しては、各地ごとに極力直接交渉によりその要求するところに基づき武器その他を引き渡すこと等を各部隊に打電した(乙41の459~460頁)。
同月18日、関東軍総司令部は、各方面軍及びその他直属軍の参謀長を集め、停戦及び武装解除に関する関東軍命令を伝達した(乙39の4頁)。
同月19日、関東軍参謀総長とソ連の極東軍総司令官との間で停戦交渉が開始され、停戦、武装解除等について協定が成立した(乙41の466~467頁)。そこで、関東軍は、同月20日11時までに一切の戦闘を停止し、武器を交付するように各部隊に指示した(乙46)。
(イ)毒ガス兵器の処理
a 終戦直前から終戦直後の混乱期において、中国各地の旧日本軍部隊においては、(ア)の指示、指令にもかかわらず、上官の命令により、同部隊に配備されていた毒ガス兵器を、川や古井戸に投棄したり地中に埋めたりして、隠匿する例があった(甲32~39)。
b 終戦直後のアメリカ陸軍化学戦統括部隊の広東派遣班、同上海派遣班、同華中派遣班の各調査においては、旧日本軍から連合国軍にイペリット・ルイサイト等の致死性のある毒ガス兵器が引き渡されたことは確認できなかった(甲47~49)。
c 毒ガス兵器の隠匿については、昭和20年(1945年)8月20日ころ、毒ガス兵器を日本国内の陸奥湾に投棄し、隠匿した例や(甲5の6頁、甲26の20頁、甲28)、同月25日ころ、旧日本海軍第23特別根拠地隊司令部(セレベス島マカッサル)が、化学戦資材(防毒面を含む)のすべての痕跡を完全に廃棄するように命令を発した例などがある(甲5の7頁、甲26の21頁)。
カ 本件第1現場の状況
(ア)戦中のチチハル市内においては、市内中心部から南に龍門大街、青雲路と称される街路があり、青雲路を南下した地域に南大営と称される地区があり、南大営に満洲航空のチチハル支店が置かれていた(甲7、133の93頁、137~139、268、269)。南大営の南側に、昭和7年(1932年)5月、チチハル飛行場の建設が開始され、昭和8年(1933年)の夏に完成した(甲135の506頁)。
本件ドラム缶が発見された本件第1現場付近は、戦中、チチハル飛行場の近くにあり、旧日本軍516部隊の弾薬庫として使用されていた(甲270)。
(イ)上記(ア)の弾薬庫は、中華人民共和国成立後は人民解放軍の弾薬庫となり、平成13年(2001年)に北疆開発公司に売却され、平成14年(2002年)に北疆花園団地の開発が始まった(甲217、218、270、原告龍国安本人1~5頁)。
キ 遺棄化学兵器に関する日本の取組み
(ア)平成2年(1990年)4月、中国は、日本に対し、非公式に、旧日本軍が中国に持ち込んだ化学兵器の処理要請を行った。これを踏まえ、平成3年(1991年)1月、上記化学兵器の問題について、日中両国政府間で協議が開始された(乙24の1頁、乙32)。
この協議が進められた後の平成11年(1996年)7月30日、日中両国政府は別紙日中覚書記載の内容の覚書を締結した。同覚書において、両国政府は、旧日本軍の遺棄化学兵器が存在していることを確認した(乙6)。
この間の平成7年(1995年)9月に、日本は、化学兵器禁止条約を批准した。同条約は、平成9年(1997年)4月29日、発効した(乙24の1頁)。
(イ)外務省は、中国に遺棄された化学兵器について、平成3年(1991年)6月から平成19年(2007年)4月にかけて、46回(11回の緊急現地調査を含む)にわたり、化学兵器に関する現地調査を行った。その調査対象となった地域が存在する省は、吉林省、江蘇省、浙江省、黒竜江省、遼寧省、河南省、河北省、湖北省、安徽省、湖南省、江西省、広東省と広範囲にわたるが、そのほとんどの地域で、旧日本軍の化学兵器の存在が確認された(乙31)。
(ウ)a 日中覚書締結直前の平成11年(1999年)4月1日、遺棄化学兵器の廃棄処理事業を実施する部署として、総理府に「遺棄化学兵器処理担当室」(その後の省庁再編により内閣府に所属)が発足した(乙24の2頁)。
b 上記担当室が扱っている遺棄化学兵器の処理事業には、以下のとおり、(a)ハルバ嶺における発掘、回収作業と、(b)その他の地区における発掘、回収作業がある。
(a) ハルバ嶺について(乙24の8頁、14頁、乙32)
旧日本軍の遺棄化学兵器が最も多く残されている地域は、吉林省敦化市のハルバ地区である。1950年(昭和25年)代初め、敦化市内の諸地域で、大量の化学砲弾が発見され、頻繁に中毒事件が起きたため、中国政府が、昭和26年(1951年)から昭和38年(1963年)にかけて、これらを人の住まないハルバ嶺の一角の山腹に埋めたものである。
同自治区における処理事業は、平成19年(2007年)の段階で、発掘、回収施設及び無害化処理施設建設のための造成工事を開始し、処理事業を進めるべく、中国側と協議中となっている。
上記担当室は、ハルバ嶺には30~40万発の化学兵器が埋設されていると推定している。
(b) その他の地区について(乙24の14頁、乙32)
その他の地区については、同担当室は、平成12年(2000年)9月から平成19年(2007年)までの間に、別紙発掘回収作業一覧表記載のとおり、合計16回にわたり、中国各地において、化学兵器の発掘回収作業を実施し、旧日本軍の化学兵器又はその可能性のある砲弾等を回収した。この回収作業と上記(イ)の外務省調査により回収された化学砲弾等の数は、約3万8000発である。
(以下、続く)