Archive for the ‘8・4チチハル遺棄毒ガス事件’ Category

8.4から7年

木曜日, 8月 5th, 2010

本来は、昨日8月4日に更新しなければいけなかったのですが1日過ぎてしまいました!ごめんなさい。

しかし、1日過ぎたところで、中国国内で改めて7年目に話題にしている記事などが無いのか、と色々検索してみました。が、どうも無いようです。。。なかなか、日本の世論もそうですが、中国の世論を動かすのも難しいものですね。

一番最近の記事で見つかったのが、「合肥電視台」の方で6月14日に記事にしていただいているもので、李臣さんのお写真と一緒に、子どもが歩いてるようなところに無造作に捨てられた毒ガス弾の写真が載っています・・・。同じくらいの子ども達を持つ私には正視できないほどの衝撃です。

羅弁護士のインタビューも載っていますが、羅先生ご自身が、支援のお金を作るために住居を売ったことも書かれています。被害者はもちろん支援者の弁護士にまで、こんなに犠牲ばかりを強いていていいのか、とたいへん辛い思いになりました。

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第13回口頭弁論(2009/11/19)

火曜日, 6月 29th, 2010

3人の本人尋問、幸せな人生と家族の団欒を返して

駐車場の工事現場の土の中に毒ガスのドラム缶があった・・李双義さん

最初の尋問は李双義さんです。尋問を担当したのは山下弁護士です。李さんの答えた要旨です。

私は1969年8月4日、5人兄弟の4番目として生まれました。ちょうど誕生日である2003年8月4日朝7時から第一現場である地下駐車場の工事現場で作業を始めました。畢海岩さんから作業を引き継ぎました。地下駐車場予定地の掘削作業です。その作業は半分ほどすすんでいました。地下3mほどのところに5本のドラム缶が埋まっていたと畢さんから聞きました。そのドラム缶は予定地の北西角に置いてありました。掘削したところの土が一部黒ずんでいました。作業を続けるうちにカラシの匂いが強くなりました。タオルを顔にまいて作業を続けました。そのタオルは畢さんが身体をぬぐったものでした。

ユンボの運転手は14年やっていました。1989年21歳で特殊免許をとりました。その時働いていた会社の社長が私の仕事ぶりをみて黒竜江省労働局に便宜をはかって申請してくれたものです。3年間レンガの精製工場で働きました。1992年義理の兄の会社、1994年新栄有限公司に移りました。年収は4万元ほどありました。ユンボの運転手は体力が必要です。小学校の時からバスケットの選手をやっていました。1988年には軍隊にはいっています。1993年に結婚、その年に男の子が産まれました。子どもが産まれて父親としての責任を感じるようになりました。

その子どもは今ハルピンのコンピューターの専門学校に行っています。学費は年15,000元かかりますが、友人から借金しました。事故に遭わなければ成績もよかったし、大学に行かせたいと思っていました。息子が言うには「高校・大学のコースは時間もかかるし、お金もかかる。家にはお金がない。一日も早く技術を身につけ、稼ぎたい」というのです。妻の態度も事故後変わりました。ぐちやうらみごとを言うようになりました。今はよくしてくれていますが・・・。今は妻の収入だけでくらしています。月収は1500~1700元ほどです。治療費が月に3000元ほどかかりますが、借金で工面しています。

今、股関節が壊死し、半月板の損傷、骨沮喪症といわれています。座っている時間が長いと腰が痛くなります。しゃがむことができず様式トイレでないとできません。落ちているものを拾うのも痛いです。医者からは若いのに60歳ぐらいの骨だといわれました。仕事をしたくても体力がついていかずできません。病院に入院している時、王成さんと亡くなった李貴珍さんと同室でした。目に包帯をされていて見えませんでしたが、声は聞こえました。痛くて叫んでいる声が聞こえ、とても怖かったです。目の包帯は10日ほどでとれました。今も目の前に霞みがかかっているように感じます。事故後、毒ガス被害は感染すると言われ、友だちが離れていき、とても寂しく孤独感を感じました。妻は事故に憤りを感じています。夫が仕事ができず、幸せな家庭をこわしてしまった、と言っています。私は障害者になり、治療に専念しています。妻はいたわって面倒をみてくれています。感謝しています。

日本政府に強く求めます。一刻も早く毒ガスを処理し、同胞が二度と被害にあわないようにしてほしい。

毒ガスで汚染された土を知らずに土嚢につめていた・・・施青さん

昼食をはさんで午後の尋問は施青さんからです。尋問担当は南弁護士です。施青さんの答えた要旨です。

私は1951年生まれです。チチハル北方の農村で生まれました。経済的に苦労し、食べるものも事欠く状態でした。1972年結婚し、22歳の時に長女、28歳の時に長男が生まれ、とても幸せでした。農業をしていましたが、39歳の時に小さな雑貨店を開き、廃品回収業も始めました。農業だけでは豊かな生活ができないと思ったからです。子どもたちと年老いた親のためでした。2000年からチチハル市内に出稼ぎに行くようになりました。息子が結婚し、二世帯住宅を建てるために借金をしたからです。借金は7000元です。出稼ぎは工事現場でセメントを運ぶ仕事です。ふだんは工事現場で50kgほどのセメントの袋をミキサー機まで運び、流し込む仕事をしています。一日にこの袋を200~300ぐらい運びました。朝の4時から夕方の6時まで仕事をし、残業もありました。

事故の日、昼間(朝4時から夕方6時まで)は5階建ての建物工事のコンクリート運びの6番現場で作業をしました。事故があった2番現場の地下駐車場工事の現場では夜の8時から真夜中の0時まで働きました。掘った土がまわりに積み上げられていましたが、それが中に流れ込まないように土嚢を積み上げる仕事でした。土を袋に詰めていきます。シャベルで土を救う人がいて、袋を口をあけ、その土を詰め、運ぶ人の背中に渡していました。シャベルで掬った土が私の身体にたくさんつきました。5日になって、左足のすね、右足、陰嚢に水泡ができました。食あたりかな、と思っていましたが、リーダーの陸さんから病院に行くように言われました。203病院に103日入院しました。病室には解放軍が見張りにたっていて、恐怖を感じました。いつも被害者の声が聞こえていました。うめき声で声がでなくなった人もいました。妻につきそいを頼みましたが「うつるから・・」と言われて断られてしまいました。

退院して村に戻った時は、収穫した大豆を脱穀する時期でした。手伝おうとしましたが、力が出ないのです。両手に力がはいりません。2~3回やりましたが、そのあとできなくなりました。簡単な作業もできなくなったのでとてもつらいです。日本のことをうらみました。日本軍が毒ガス兵器を残さなければこんな自分にはならなかった、と思いました。息子が「お父さん、本当に仕事ができないの?なまけているのではないか」と言いました。力がでない、足もむくんでいる、仕事ができないのです。息子を叱ったので、それからは言いません。今は朝起きて、孫娘を幼稚園に送り、テレビなどをみて、昼にまた孫を幼稚園に迎えに行くという日々です。

今の症状です。のどにはいつも異物がつまっているように感じています。息が苦しくなることもあります。胸も痛くて苦しいです。足のすね、陰嚢はいつもかゆい状態が続いています。薬を常用しています。目もかすんでいます。光を見ると目が痛くなります。事故後、風邪を引きやすくなりました。月に2~3回ひくという状態です。身体もむくんできて、水を控えています。1日に20回もトイレにいきます。前にはなかったことですが、下痢が続き、汗もでるようになりました。感情の動揺があり、記憶力も低下したと感じています。性生活もできなくなりました。

娘夫婦にいわれ、娘のいる除州に移りました。娘は花屋をやっていますが、花に水をやる程度の手伝いしかできません。デッキチェアに横になっているだけです。泥のようになって力がでません。テレビをみているだけです。働いている人を見ると自分は何もできず、イライラします。自殺しようとしてはさみを隠していました。夫婦ゲンカの時自分で刺して死のうと思っていました。娘の夫の親が発見し、とりあげ説得してくれました。これから生きていくことを思うととてもつらいです。妻も糖尿病を患っています。息子のところも経済的に困難です。病院に行くと入院しなさい、と言われますが、入院費が高くて入院できません。薬でなんとかしています。一番つらいことは仕事ができないことです。

日本政府には、被害をおこした兵器を取り除いてほしい、私の身体と心の痛みは化学兵器のせいでおこっています、家族の団欒も幸せも取り戻して欲しい、私のような被害者を出さないようにしてほしい、と言いたいです。裁判所は一日も早く被害者のために正しい判決をだしてほしいです。

毒ガスのドラム缶が転がされたところに座っていた・・・王立冬さん

最後は王立冬さん(尋問当日、具合が悪くなり病院で診察を受けてから裁判所に到着)(尋問担当の穂積弁護士から)コーディネートしている人が今朝迎えに行くと、ふとんをかぶって寒い寒いと言っていたそうです。来日した3日前はそうではありませんでした。

 ~~ここから本人~~

2日前から下痢、頭痛が続き、力がはいらず、めまいもあり、暑くないのにあせをかきます。病院で解熱剤・頭痛薬・はきけ止め・整腸剤をもらってきました。

月に2~3回風邪をひきます。一回症状がでると回復するのに7~8日かかります。月の半分以上は体調が悪いのです。被害前はこんなことはありませんでした。(今日の治療費は診察に6636円、薬に1953円、計8589円かかりました。弁護士から)中国では看護士に家にきてもらい点滴を打ってもらい、200~300元かかります。

2002年にチチハルに引っ越しましたが、それまではチチハルから100キロほど離れた克山県に住んでいました。そこはたいへんな田舎です。両親と妻と4人ぐらしでした。母は呼吸器の重い病気にかかっていました。三輪タクシーの運転手をやっていました。最高で月に2000元の収入がありました。競争が激しくなって月に1000元稼ぐのがやっとになりました。より良い生活をしようとチチハルに移りました。両親は田舎に残しました。チチハルでの仕事は鉄くずの回収です。仕事は順調でした。荷台付き三輪車で回収所を回って鉄くずを回収するのです。一日に500kgの鉄くずを運びました。一回では50kgもの鉄くずを持ち上げて荷台に積み込みます。30~40の回収所と取引がありました。時には廃品回収所の仕事も手伝い、信用を広げました。月に3000元ほどの収入があり、親に月300~500元を仕送りしていました。将来はチチハルに家を購入し、親を呼ぼうとしていました。母も喜んでいました。あと2~3年で実現できると思っていました。

2003年8月4日、朝4時から回収所を回っていました。午後1時頃、牛海英さんの回収所に着きました。強いカラシの匂いがしていました。鉄くずの量が少なかったので、着いてから座って本を読んで待っていました。2~3時間して鉄くずを回収して次に向かいました。夜家に帰ってからおしりに水泡ができました。妻と義父がみてくれました。マッチ棒の頭ぐらいの水泡だと言っていました。入院した後に牛さんから「毒ガス缶が転がされた所に座っていた」と聞きました。8月6日に203病院に入院しました。ピンセットで水泡をつまみ、腐った肉を手術用のナイフで削るのです。これを麻酔なしでやられました。

退院後、仕事を再開しようとしましたが、三輪車に乗れないのです。力がはいらず、汗もでます。得意先を回ると「もう来ないでくれ。アレがうつる」と言われました。うつらない、と言ってもダメでした。警備員の仕事に応募しましたが、「なぜ若いのにこんな仕事をしようとするのか」と聞かれ、正直に言うと採用してくれませんでした。それから田舎に帰りました。田舎に戻った時、母が泣きました。「息子の一生は台無しになってしまったのか」父も隣で涙を流しました。

現在の症状です。水疱のあとは黒っぽくなって痛みがあり、いつもかゆいです。長く座ることが出来ません。自転車にも乗れません。重い荷物も持てません。米袋やガスボンベも持ち上げられません。夜になると咳がでます。記憶力の低下も感じています。買い物を頼まれても種類が多いと覚えられないのです。以前はなかったことです。

生活はとても苦しく親の年金が月に600元あるだけです。食生活をきりつめ、節約をしています。肉や魚なしで野菜ばかりです。いつもの楽しい笑い声がなくなりました。妻からは「廃物」(中国語で役にたたないものという意味)と言われました。家の重荷は妻が背負っています。今年10月に女の子が生まれました。この子には早く大きくなって母の背負っている重荷を担ってほしいと願っています。医者になって患者の苦しみを解消してもらいたいというのが希望です。

(弁護士から本日本兵が日本政府にあてた報告書を見せられて)チチハルに出て来なければと自分を責めていましたが、もし日本政府が責任をもって処理していれば被害はおこりませんでした。日本軍が残した毒ガスを徹底的に撤去して、二度と事故がおこらないようにしてほしいです。私の人生、家族の人生を狂わせたので、医療と生活を保障してください。

第11回口頭弁論(2009/9/7)

火曜日, 6月 29th, 2010

みんな離れていってしまった、本人尋問で、龍国安さん

原告の龍国安さんの本人尋問です。

龍さんへの尋問を担当したのは井堀哲弁護士です。井堀弁護士はチチハル市内の地図を示し、第一現場である団地の駐車場と龍さんが被害にあった民族車体の現場の位置関係を確認しました。龍さんはこの地域で生まれ、小さい時からこのあたりの状況にとても詳しいのです。

龍さんは1962年生まれです。小さい時、第一現場になった駐車場は軍隊の敷地になっていたと言いました。外からのぞくと土がもりあがったようなところがありました。団地の建て替えがはじまるのは2001年です。それまでは軍隊の施設でした。さらにここは旧日本軍の飛行場があったことはチチハル中の人が知っています。つまりここに旧日本軍の飛行場があり、近くには格納庫が今も残っているということは動かすことの出来ない事実です。この地点に毒ガスが埋まっている可能性は非常に高く、日本政府が97年の化学兵器禁止条約締結後、その気になって捜していればみつけることができたはずのものです。

ここから龍さんの事故前の生活の話しになりました。龍さんの答えの概略です。

私は若い時、種苗会社の運転手をやっていて月100元ほどの収入がありました。92年にトラックを買って自立しました。運送業をはじめたのです。遠くから野菜や果物を運んで地元におろしました。2000年に民族車体に移りました。この会社は貨物輸送のトラックを購入した人が登録するときの手続きをドライバーにかわって代行する会社です。この会社は父が創立した会社で、従業員は10人ほどいました。そのうち5人は親族です。

登録後も保険の手続きなどのアフターサービスをしていました。私の仕事は公安局との信頼をとりつけることが中心でした。許可後の使用料などの相談にものりました。副業として運送業も手掛けていました。ドライバーもいて、順調に進んでいました。事故前の収入は年30万元ほどになっていました。5人家族で3人の女の子と幸せな生活をしていたのです。88年に結婚し、その後離婚して、92年に再婚しました。夫婦円満で、私は仕事、妻は家で家族の世話ということで、家族旅行にもよくいきました。地元の観光スポットにもよく行きました。ハルピンの氷祭りにも行ったことがあります。事故前は人もうらやむような充実した生活を送っていました。

2003年8月4日朝、民族車体に行きました。向いの団地から土が運びだされていくのを見ました。トラックの運転手に交渉して、トラック5~6台分の土を購入しました。その土で会社の敷地を整地しようと思ったからです。その後商談をして正午ごろ戻りました。駐車場に1.5mぐらいの土山が5~6個できていました。それから午後五時ぐらいまで整地作業をしました。体に異常を感じたのは六時すぎに帰宅した後です。全身のかゆみ、のどの不調、目もかすんできました。翌日出社すると、他の人の目も赤くなっていました。8月6日午後、皮膚に異常を感じました。両足のつめの色が変って黒くなっていたのです。14~20日まで203病院に入院しました。隔離されて、どんな病気かという説明もなく、失明するのでは、という不安がずっとありました。また他の患者の絶叫も不安を増幅させました。

退院後、体調がすぐれず、もとの仕事ができなくなりました。マス・メディアの報道によって毒ガスに感染したことが知られ、まわりの人が避けるようになりました。職場に行くと、親戚や同僚もあいさつをしただけで消えてしまうのです。公安局の人たちも避けるようになりました。運送業もやめてしまいました。雇ったドライバーもやめてしまい、車も売り払いました。体の症状では、目・喉の痛みに加え、頭がボーッとして混乱し、集中して物事を考えられなくなってしまったことです。いつもイライラしています。よく風邪もひきます。

くらしぶりの変化についても大変です。お金は妻に頼るしかなくなりました。以前は親戚の人のお金の工面をしていたほどでしたが、すっかり変ってしまいました。これまで週末に親戚が遊びに来ていましたが、今は居留守を使っています。労働能力がなく、仕事ができないし、収入もありません。妻とはよくケンカをするようになりました。家族とは別々に食事をとっています。下の娘に「お父さんは毒をもっている」といわれたのがショックでした。友だちも離れ、怒りっぽくなったと思います。乱暴な言葉使いにもなり、精神病になったのでは?と思うときもあります。

さびしさをまぎらわすために半年前から犬を飼っています。毎日犬をつれて外にいきます。一日の大半をそこですごします。多くの時間、川をながめてボーッとすごします。自分のことを考えると、被害にあって、人生がダメになりました。無為の人生を送るよりも飛び込んでしまおうと思ったこともあります。三人の子どものことを考えて思いとどまりました。

裁判官にひとこと、戦争中日本軍がやったことで、毒ガスが中国に残りました。被害を与え、家族にまで苦痛を与えています。一日も早く、化学兵器を撤去して平和できれいな環境を。合わせて被害者と家族への謝罪と補償もお願いします。

尋問を終わり、龍さんは傍聴席にむかって深々と頭を下げました。満場の暖かい拍手があったのは言うまでもありません。

藤井医師の証人尋問

レントゲンX線、良くなった例は一件もない、二度のハルピン検診で

龍さんの本人尋問に先立って、医師である藤井正實先生の証人尋問がありました。尋問担当は三坂彰彦弁護士です。すでに提出された藤井医師の意見書のポイントを確認するということで尋問がはじまりした。藤井医師が答えた内容を要約して示します。

私は、芝病院の副院長として、一般内科を中心に職業呼吸器、産業中毒などを専門としています。遺棄毒ガス被害者の検診にかかわるきっかけになったのは、これまでもじん肺訴訟にかかわってきたことから、2005年8月はじめてチチハルの被害者の検診をしました。皮膚障害をもっている方たちでした。胸部レントゲンもとりました。この人たちが就労できない、というのは呼吸器疾患が原因とは考えられません。

2006年3月にハルピンに行き、レントゲン撮影、喀痰検査などをしました。42名の検診をしました。私が直接診たのは30人です。就労できないほどの人がたくさんいました。これまでも産業中毒の人を見てきましたが、化学物質過敏症と似ています。自律神経系ではないかと感じました。2008年3月に再び、ハルピンで検診しました。その時は神経内科の検査もしました。大脳の問題で高次機能障害の恐れもありました。

イペリットによって呼吸器障害がおこっていることは争いがありません。慢性気管支炎になっています。被爆後数年で「慢性」の症状で出ているのです。気管支の粘膜をただれさせています。一度おきた炎症はなかなか治りません。非可逆的で、症状は同じ状態か悪化しているのです。原告41名のデータがあります。せき・痰の状況はフレッチャーの基準で慢性気管支炎と診断できます。レントゲンX線の異常所見は21名、06年から08年にかけて良くなった例は一件もありません。当初の被爆で重篤だった人ほど喀痰検査の異常が多くなっています。呼吸器検査でも軽度の末梢気道閉塞の人もいます。毒ガスによる細い気管支の炎症がおこっています。

免疫機能の低下について述べます。抵抗力の低下については、被爆直後に日本政府が調査した報告書でもあきらかです。骨髄を抑制し、免疫細胞を減らしています。肝機能障害についても数人の方にみられました。解毒をするというのが肝臓の機能ですが、これが毒ガスによって侵されているのです。

国側の反対尋問

というところで、国側の反対尋問にうつりました。国側の代理人は、被害者の症状が毒ガス被害との因果関係が証明できるのか、という視点にたって、ネチネチと藤井先生に尋問していましたが、藤井先生は、自分でおこなった検診と医師の識見をもって断固として国側代理人の尋問に答えていました。国側の意図は藤井先生には通じませんでした。

第9回口頭弁論(2009/5/11)

火曜日, 6月 29th, 2010

第9回口頭弁論で、被害状況の陳述(2009年5月11日)

5月11日、東京地裁の大法廷は遺棄毒ガスチチハル訴訟の原告代理人の準備書面の朗読がおこなわれました。佐藤香代弁護士からは被害の実態と現状を医学的見地から実証しました。

まず被害直後の悲惨な状況について述べました。

被害者全員が軍の203病院に隔離されました。この状況は事故から11日後に日本政府が派遣した調査団の報告書にも述べられています。この報告書によっても悲惨な状況は明かです。

被害者の中で唯一亡くなった方の状況は次のようです。受診時30%程度だった皮膚損傷が急速に95%に拡大し、ほぼ全身が糜爛するに至りました。血小板と白血球が著しく低下し、重症の敗血症で、急性心不全をおこし、事故後15日で亡くなったのです。

このように初期段階の調査で志望者と同程度の「特重度」に分類された原告は4人いました。この他にこの報告書では、重度16人、中程度11人、軽程度は12人とされました。

佐藤弁護士は、次に一向に改善しない慢性症状について述べました。事故から5年以上経過しても全身に複合的な健康被害をかかえています。

①呼吸器の疾患。毒ガスによる呼吸器疾患花街時間をかけて進行するといわれていますが、多くの被害者がこの症状をまわりがわかるくらいに進行しています。

②免疫力の低下。骨髄抑制の状態にある原告もいます。

③高血糖の状態。事故当時小学生だった原告も高血糖になっています。

④神経障害も深刻です。しびれ等の感覚異常、筋力の低下、自律神経の障害も認められたり、脳に対する生涯である高次脳機能障害も確認されています。

さらにこの総体として「易疲労性の問題」もあります。ほぼすべての原告が「疲れやすい」「動けなくなる」状況を訴え、胸が苦しくなる(胸悶・・・中国語でシュンムン)を訴える状況です。ある原告は「びらんがおきた陰嚢と足首は今もかゆく、湿っています。心まで伝わってくるようなかゆみです。咳はほぼ毎日でます。視力も低下しました。ものがぼやけて二重にみえます。ピントも調節できないし、まぶしさを強く感じます。性的な能力も落ちて、夫婦生活に支障をきたしています。シュンムンが出た時には、深夜でも耐え難く、外にでたりします。睡眠時間も今は3~4時間ぐらいです」などと述べています。

毒ガスの被害は、時間がたってだんだん改善されるというものではありません。毒ガス被害の恐ろしさは心臓疾患です。心臓に異常がある原告の多くは40歳代前半です。そしてもっとも恐れるのは発ガンです。検診を担当した医師も、今後必ず発ガンの問題が浮上すると警告しています。

次に全人生的な被害の状況を菅野弁護士から論述されました。被害者は事故当時学生だった者を除いて全員が就労していました。しかし事故後、易疲労性、筋力低下、眼障害、記憶力や集中力の低下などの複合的身体的被害のために、それまで従事していた仕事を失ってしまいました。

事故の2年前にチチハルに出てきた貧しい農民だった原告は、チチハルで廃品回収の仕事をおこない、鉄屑、貴金属を集め、売却することをおこなっていました。30キロの荷物をもっても平気で、収入も増え、くらしの見通しもでてきたといいます。ところが事故後10キロの荷物をもっても動悸がして休まなければならなくなったり、薪を斧で細かくするだけの作業も5分斗続かない状態で、力がはいらない、全身がだるい、などで就労できなくなりました。仕事ができなくなるということは収入が減っていくということで家族の生活にも影響がでていきます。一家の支え手としての役割を失ったことによる精神的苦痛も広がっています。ある原告の息子さんは大学入試に合格しましたが、経済的な紙上で進学を断念しました。

子どもの状況も深刻です。退院後、復学しましたが、黒板の字がみえない、記憶力が落ちた、風邪をひきやすいなどの状況にくわえ、まわりの友だちから「イペリット中毒」「伝染する」などといわれ、一緒に遊んでもらえなくなったりしています。まわりの風評被害も深刻です。身体的被害への無理解・・・「なまけ者だと誤解」、伝染するという誤った偏見、被害者自身の性格変化などが原因で友人関係の破綻もおこしています。ある原告はまわりの保護者から「登校させるな」という抗議があり、教室でも席を離されて授業を受けるなどによるなどで退学せざるを得なくなった原告もいます。

経済的な状態に言及すれば、収入がないので、政府からの給付金がなくなったら「死ぬしかない」という原告もいます。医療費の問題も大きいです。中国の医療費は高額で、保険制度の適用を受けないチチハル被害者たちは全額自己負担になっています。乏しい収入と莫大な医療費で生活困難は事故前とはくらべることのできないほど悪化しています。この状況は今後改善される見通しはありません。将来への不安をすべての原告がかかえています。仕事のこと、家族のこと、友人のこと、「事故の後、本当にすべてのことが変わってしまいました」と15歳の原告が語る言葉は深い悲しみと無力感を表すものです。

裁判所は深刻な被害を受け止め、救済の手をさしのべるべき、と菅野弁護士は結びました。

このあと報告集会にうつりました。その中で井堀弁護士は、参加者の質問にこたえ、この裁判の意義について「被害者の救済、遺棄毒ガス弾の処理は政治的に解決しなければならない問題です。一方で政治解決のはたらきかけを強めていますが、裁判で勝利することで、政治解決への弾みをつけていくことになります」と述べました。

チチハル8.4事件、訴状「請求の原因」

火曜日, 6月 29th, 2010

3 訴状において原告らが2の裁判を求める理由(「請求の原因」)

日本政府が賠償の法的責任を負う理由につき訴状は概ね以下のように述べています。

① 化学兵器の遺棄という先行行為に基づく危険除去の作為義務
そもそも、本件の原因は、旧日本軍が中国に配備した毒ガス兵器であり(日本政府も認める)、これは旧日本軍が敗戦時に遺棄したものと推測されます。
日本政府は、毒ガスという非人道的な兵器を製造・遺棄し、人の生命・身体に重大な危険を生ぜしめる行為を行った(先行行為)以上、その危険を除去し被害を防止すべき作為義務を負っていたものと言わねばなりません(危険除去の作為義務)。

② 日本政府は被害の予見ができたし、結果回避措置をとることもできた
日本政府としては、中国各地で毒ガスを配備し敗戦時に遺棄を指示した以上、毒ガス被害発生の予見は可能でしたし(予見可能性)、毒ガスが遺棄された危険な地域について情報収集をし中国政府に伝える等の措置をとれば本件のような毒ガスによる悲惨な事故発生を回避することも可能でした(結果回避可能性)。

③ しかるに、日本政府は、敗戦時から戦後60年余の間も、また前記の1999年の日中の覚書以後においても、毒ガスが遺棄されている地域について情報収集をする等の努力をするどころか、却って毒ガス兵器に関する資料を焼却するなどして重要な情報を隠滅・隠蔽する行為を行い危険除去を困難にしてきたのです。
これは、前述した危険除去の作為義務に違反したものであり、日本政府が、被害救済の責任を負わねばならない理由はここにあります。

④ こうした違法行為により、原告らは、毒ガスによる、完治不可能で、進行性・遅発性の重大な身体的被害とともに、就労不能等の様々な社会的・精神的被害をも含めた全人生被害ともいうべき損害を被っており、日本政府はこれに対する責任を負わねばなりません。

今後の医療の取り組み

水曜日, 11月 4th, 2009

今回は、チチハル現地視察の際に撮った、車窓風景写真をお届けします。当日は土砂降りの雨でした。・・・

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私どもの中国人ガイドさんが、「発展途上国の、更に発展途上地域ですよ」と再三おっしゃっていましたが、いろいろインフラなど整っていない中で、皆さん懸命に生きておられます。このような草っぱらが、だだっぴろく、広がっている所がたくさんあります。

その中で、どこに毒ガスが埋まっているか、どの土が汚染されているか、なかなかわからない。日本政府が仮に本気で調査したとしても、非常に難しい課題であると思います。

去る10月19日に、三橋(橘田)医師から、どのように皆さんの健康被害を診断したのか、というお話がありましたが、毒ガス被害者に対してこのような検査がなされることも珍しいし、その手法が確立しているなどとは到底いえない、三橋(橘田)医師自身も試行錯誤や新しい発見だらけであって、むしろ政府がきちんと動いて他のたくさんの医師に協力してもらうのが本筋である、ということがよくわかりました。

そりゃそうですよね。戦争のために作った毒ガスであって、その被害にあった人は放置されて死んでいくことを想定して作ったものです。治すための検査やら、その後生きていくための治療法などは、ほとんど研究されてこなかったと思います。 

私は、この2003年の事件のことを最初に聞いて

「戦争なんか、しない以外にない・・・。」

とつぶやいてしまいました。

武器や兵器を作らない、誰もこれ以上危険にさらすことをしないための運動も本当に急務です。

そして、この広い大地のどこかから、また新たな犠牲者を出してしまう可能性が、残念ながらゼロではないことを考えると、治療法や検査法の研究も、早く進めていきたいものです。

藤井医師、三橋(橘田)医師の貢献に頭が下がるとともに、多くのお医者さんたちが、後に続いてほしいと思います。

2009年10月19日期日案内

金曜日, 10月 9th, 2009

10月19日午前11時~東京地裁103号法廷で第12回期日が開かれます。

今回は、楊樹茂さん(原告の方)、三橋医師、の尋問が行われます。

また、于景芝さん(原告の方)の来日も希望していたのですが、ビデオを編集して証拠として出し、法廷で上映してもらうことになりました。

ぜひ、たくさんの方で傍聴席をいっぱいにしてください。

法廷は午前・午後とございまして、終了後に弁護士開館で報告集会もございます。前回は、全部終了すると17時くらいになりました。

支援をお願いします!

粘土のテントウ虫君からも、支援をお願いします!

[裁判報告 2007/9/3@東京地裁]遺棄化学兵器被害チチハル事件訴訟第2回口頭弁論

金曜日, 9月 7th, 2007

集会全景集会全景9月3日は、午前中にもかかわらず、100席ある大法廷の傍聴席がほぼ満席となりました。
当日来てくださった方、原告来日費のためにカンパをくださった方本当にありがとうございました!!
弁護団は、チチハル市街地に,毒ガスが遺棄された当時駐留していた軍隊の場所や,それが現在のチチハル市街のどこに当たるかについて、フリップを使って(しかも手書き)裁判官にも傍聴者にもわかりやすく注意を惹く形で弁論しました。この方法はなかなか好評なので、次回以降も継続するそうです。
今回、裁判のために来日してくださった崔金山さんは、彼が毒ガスの被害にあった時の詳しい状況とその後の生活の困難さ、体調の悪さについて、丁寧に意見陳述してくださいました。私が働けないせいで、娘に迷惑をかけてしまった、でも娘はそんな私に文句も言わないと涙を流しながら切々とおっしゃっていました。
裁判官も傍聴者も彼の話にじっと耳を傾け、陳述が終わると傍聴席から自然と拍手がおきました。

当日の陳述書は以下のリンクをクリックしてご覧ください。
1.弁護団による陳述書
2.原告崔金山さんによる陳述書 ←必読☆

■次回の予定
2007年12月3日10:30~11:30(終了時刻は予定)
場所:東京地方裁判所 103号法廷

原告が中国チチハルより来日し意見陳述を行う予定です。
次回もぜひ、傍聴にきて、原告のみなさんを励ましてください。
今後ともご支援よろしくお願いいたします。

被害の様子を話す崔さん
法廷での意見陳述のあと、傍聴に来てくださった皆さんに心境など報告する崔さん

法廷での弁論終了後の報告集会の様子
法廷での弁論終了後の報告集会の様子