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2010年5月24日 東京地裁 第1審判決内容

火曜日, 6月 29th, 2010

◇ 2010年5月24日 東京地裁 第1審判決

原告の請求を棄却する。(敗訴)

第2 当裁判所の判断

1 請求原因(1)について

証拠(甲209、212、213、214、216の1、221、228の1、229~248、250~266、原告陳栄喜本人、原告陳紫薇本人、原告馮靖雯本人、原告龍国安本人、原告楊樹茂本人、原告李双義本人、原告施青本人、原告王立冬本人)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

なお、以下で認定する月日の年は、全て平成15年(2003年)である。

(このあと、ほぼ原告側の主張どおりに、被害の事実が認定されています。)

2 請求原因(2)について

(1)前提事実
証拠(認定事実中に掲げたもの)によれば、以下の事実が認められる。

ア 毒ガス兵器に関連する条約

明治40年(1907年)、日本を含む各国により署名された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(ハーグ陸戦条約)は、その附属書である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」において、毒又は毒を施した兵器を使用することを禁止した(甲1の24頁、乙12の42頁)。日本は、明治44年(1911年)、同条約を批准した。

大正14年(1925年)、日本を含む各国より署名された「窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」(以下「ジュネーブ議定書」という。)において、戦争における毒ガスの使用が禁止された(乙12の102頁、乙25の100頁)。日本は、昭和45年(1970年)、上記議定書を批准した(乙12の107頁)。

イ 旧日本軍による毒ガスの生産

(ア)旧日本陸軍は、昭和4年(1929年)、広島県多くの字間の忠海兵器製造所で毒ガスの生産を開始し、昭和13年(1938年)からは、福岡県の曽根兵器製造所で毒ガスを砲弾に詰めて化学砲弾を製造する作業を開始した(甲1の3頁、甲29の8頁)。
旧日本海軍は、昭和18年(1943年)以降、神奈川県の相模海軍工廠で毒ガスを生産した(甲1の3頁)。
占領期にアメリカ軍が入手した旧日本軍の毒ガス生産量に関する資料等に基づいて、旧日本軍の毒ガスの生産量が7376トンで、化学兵器の海外への配備量が248万8309発であり、そのうちの大部分が中国への配備に当てられたと推定する研究が報告されている(甲1の5~13頁、甲300の39~40頁)。

(イ)旧日本陸軍が製造した毒ガスのうち、糜爛(びらん)性ガス(イペリットガス及びルイサイトガス。イペリットガスはマスタードガスとも呼ばれる。)は「きい剤」、くしゃみ性・嘔吐性ガスは「あか剤」、催涙性ガスは「みどり剤」と呼称されていた(甲1の3~5頁、甲29の7頁、甲300の5~6頁)。「きい剤」が本件事故の原因となった毒ガスである。

ウ 毒ガス兵器の中国への配備・保管

(ア)旧日本軍は、昭和12年(1937年)ころから、日本国内で生産した毒ガス兵器を中国に持ち込んで、中国内に駐留している各軍隊(北支那方面軍、中支那派遣軍、南支那方面軍等)に配備した(甲29の8頁、甲300の20~27頁)。
関東軍は、昭和14年(1939年)、斉々哈爾(チチハル)において、化学兵器の研究、実験業務等を扱う化学部(通称516部隊)を、昭和17年(1942年)、富拉爾基(現在のチチハル市フラルキ区)において、化学兵器の実験業務を行う化学部練習隊(通称526部隊)を、それぞれ編成し、終戦時まで駐屯した(甲54の関東軍化学部略歴、同部練習隊略歴)。

(イ)旧日本軍においては、毒ガス兵器を含む化学兵器は、化学兵器用の特殊格納庫に貯蔵すべきものとされており(甲4の化学兵器取扱細則案36条1項)、日本国内においては、毒ガス兵器が他の弾薬と区別されて地下に保管されることがあった(甲41の58、142,197頁)。

エ 毒ガス兵器の中国における使用

旧日本軍は、日中戦争の開始後、参謀総長からの使用許可の指示に基づき、昭和12年(1937年)7月から「みどり剤」を、昭和13年(1938年)4月から「あか剤」を、昭和14年(1939年)5月から「きい剤」を、それぞれ中国において使用するようになった(甲1の29、30、47頁、甲2、甲300の20頁)。

(以下、続く)

第13回口頭弁論(2009/11/19)

火曜日, 6月 29th, 2010

3人の本人尋問、幸せな人生と家族の団欒を返して

駐車場の工事現場の土の中に毒ガスのドラム缶があった・・李双義さん

最初の尋問は李双義さんです。尋問を担当したのは山下弁護士です。李さんの答えた要旨です。

私は1969年8月4日、5人兄弟の4番目として生まれました。ちょうど誕生日である2003年8月4日朝7時から第一現場である地下駐車場の工事現場で作業を始めました。畢海岩さんから作業を引き継ぎました。地下駐車場予定地の掘削作業です。その作業は半分ほどすすんでいました。地下3mほどのところに5本のドラム缶が埋まっていたと畢さんから聞きました。そのドラム缶は予定地の北西角に置いてありました。掘削したところの土が一部黒ずんでいました。作業を続けるうちにカラシの匂いが強くなりました。タオルを顔にまいて作業を続けました。そのタオルは畢さんが身体をぬぐったものでした。

ユンボの運転手は14年やっていました。1989年21歳で特殊免許をとりました。その時働いていた会社の社長が私の仕事ぶりをみて黒竜江省労働局に便宜をはかって申請してくれたものです。3年間レンガの精製工場で働きました。1992年義理の兄の会社、1994年新栄有限公司に移りました。年収は4万元ほどありました。ユンボの運転手は体力が必要です。小学校の時からバスケットの選手をやっていました。1988年には軍隊にはいっています。1993年に結婚、その年に男の子が産まれました。子どもが産まれて父親としての責任を感じるようになりました。

その子どもは今ハルピンのコンピューターの専門学校に行っています。学費は年15,000元かかりますが、友人から借金しました。事故に遭わなければ成績もよかったし、大学に行かせたいと思っていました。息子が言うには「高校・大学のコースは時間もかかるし、お金もかかる。家にはお金がない。一日も早く技術を身につけ、稼ぎたい」というのです。妻の態度も事故後変わりました。ぐちやうらみごとを言うようになりました。今はよくしてくれていますが・・・。今は妻の収入だけでくらしています。月収は1500~1700元ほどです。治療費が月に3000元ほどかかりますが、借金で工面しています。

今、股関節が壊死し、半月板の損傷、骨沮喪症といわれています。座っている時間が長いと腰が痛くなります。しゃがむことができず様式トイレでないとできません。落ちているものを拾うのも痛いです。医者からは若いのに60歳ぐらいの骨だといわれました。仕事をしたくても体力がついていかずできません。病院に入院している時、王成さんと亡くなった李貴珍さんと同室でした。目に包帯をされていて見えませんでしたが、声は聞こえました。痛くて叫んでいる声が聞こえ、とても怖かったです。目の包帯は10日ほどでとれました。今も目の前に霞みがかかっているように感じます。事故後、毒ガス被害は感染すると言われ、友だちが離れていき、とても寂しく孤独感を感じました。妻は事故に憤りを感じています。夫が仕事ができず、幸せな家庭をこわしてしまった、と言っています。私は障害者になり、治療に専念しています。妻はいたわって面倒をみてくれています。感謝しています。

日本政府に強く求めます。一刻も早く毒ガスを処理し、同胞が二度と被害にあわないようにしてほしい。

毒ガスで汚染された土を知らずに土嚢につめていた・・・施青さん

昼食をはさんで午後の尋問は施青さんからです。尋問担当は南弁護士です。施青さんの答えた要旨です。

私は1951年生まれです。チチハル北方の農村で生まれました。経済的に苦労し、食べるものも事欠く状態でした。1972年結婚し、22歳の時に長女、28歳の時に長男が生まれ、とても幸せでした。農業をしていましたが、39歳の時に小さな雑貨店を開き、廃品回収業も始めました。農業だけでは豊かな生活ができないと思ったからです。子どもたちと年老いた親のためでした。2000年からチチハル市内に出稼ぎに行くようになりました。息子が結婚し、二世帯住宅を建てるために借金をしたからです。借金は7000元です。出稼ぎは工事現場でセメントを運ぶ仕事です。ふだんは工事現場で50kgほどのセメントの袋をミキサー機まで運び、流し込む仕事をしています。一日にこの袋を200~300ぐらい運びました。朝の4時から夕方の6時まで仕事をし、残業もありました。

事故の日、昼間(朝4時から夕方6時まで)は5階建ての建物工事のコンクリート運びの6番現場で作業をしました。事故があった2番現場の地下駐車場工事の現場では夜の8時から真夜中の0時まで働きました。掘った土がまわりに積み上げられていましたが、それが中に流れ込まないように土嚢を積み上げる仕事でした。土を袋に詰めていきます。シャベルで土を救う人がいて、袋を口をあけ、その土を詰め、運ぶ人の背中に渡していました。シャベルで掬った土が私の身体にたくさんつきました。5日になって、左足のすね、右足、陰嚢に水泡ができました。食あたりかな、と思っていましたが、リーダーの陸さんから病院に行くように言われました。203病院に103日入院しました。病室には解放軍が見張りにたっていて、恐怖を感じました。いつも被害者の声が聞こえていました。うめき声で声がでなくなった人もいました。妻につきそいを頼みましたが「うつるから・・」と言われて断られてしまいました。

退院して村に戻った時は、収穫した大豆を脱穀する時期でした。手伝おうとしましたが、力が出ないのです。両手に力がはいりません。2~3回やりましたが、そのあとできなくなりました。簡単な作業もできなくなったのでとてもつらいです。日本のことをうらみました。日本軍が毒ガス兵器を残さなければこんな自分にはならなかった、と思いました。息子が「お父さん、本当に仕事ができないの?なまけているのではないか」と言いました。力がでない、足もむくんでいる、仕事ができないのです。息子を叱ったので、それからは言いません。今は朝起きて、孫娘を幼稚園に送り、テレビなどをみて、昼にまた孫を幼稚園に迎えに行くという日々です。

今の症状です。のどにはいつも異物がつまっているように感じています。息が苦しくなることもあります。胸も痛くて苦しいです。足のすね、陰嚢はいつもかゆい状態が続いています。薬を常用しています。目もかすんでいます。光を見ると目が痛くなります。事故後、風邪を引きやすくなりました。月に2~3回ひくという状態です。身体もむくんできて、水を控えています。1日に20回もトイレにいきます。前にはなかったことですが、下痢が続き、汗もでるようになりました。感情の動揺があり、記憶力も低下したと感じています。性生活もできなくなりました。

娘夫婦にいわれ、娘のいる除州に移りました。娘は花屋をやっていますが、花に水をやる程度の手伝いしかできません。デッキチェアに横になっているだけです。泥のようになって力がでません。テレビをみているだけです。働いている人を見ると自分は何もできず、イライラします。自殺しようとしてはさみを隠していました。夫婦ゲンカの時自分で刺して死のうと思っていました。娘の夫の親が発見し、とりあげ説得してくれました。これから生きていくことを思うととてもつらいです。妻も糖尿病を患っています。息子のところも経済的に困難です。病院に行くと入院しなさい、と言われますが、入院費が高くて入院できません。薬でなんとかしています。一番つらいことは仕事ができないことです。

日本政府には、被害をおこした兵器を取り除いてほしい、私の身体と心の痛みは化学兵器のせいでおこっています、家族の団欒も幸せも取り戻して欲しい、私のような被害者を出さないようにしてほしい、と言いたいです。裁判所は一日も早く被害者のために正しい判決をだしてほしいです。

毒ガスのドラム缶が転がされたところに座っていた・・・王立冬さん

最後は王立冬さん(尋問当日、具合が悪くなり病院で診察を受けてから裁判所に到着)(尋問担当の穂積弁護士から)コーディネートしている人が今朝迎えに行くと、ふとんをかぶって寒い寒いと言っていたそうです。来日した3日前はそうではありませんでした。

 ~~ここから本人~~

2日前から下痢、頭痛が続き、力がはいらず、めまいもあり、暑くないのにあせをかきます。病院で解熱剤・頭痛薬・はきけ止め・整腸剤をもらってきました。

月に2~3回風邪をひきます。一回症状がでると回復するのに7~8日かかります。月の半分以上は体調が悪いのです。被害前はこんなことはありませんでした。(今日の治療費は診察に6636円、薬に1953円、計8589円かかりました。弁護士から)中国では看護士に家にきてもらい点滴を打ってもらい、200~300元かかります。

2002年にチチハルに引っ越しましたが、それまではチチハルから100キロほど離れた克山県に住んでいました。そこはたいへんな田舎です。両親と妻と4人ぐらしでした。母は呼吸器の重い病気にかかっていました。三輪タクシーの運転手をやっていました。最高で月に2000元の収入がありました。競争が激しくなって月に1000元稼ぐのがやっとになりました。より良い生活をしようとチチハルに移りました。両親は田舎に残しました。チチハルでの仕事は鉄くずの回収です。仕事は順調でした。荷台付き三輪車で回収所を回って鉄くずを回収するのです。一日に500kgの鉄くずを運びました。一回では50kgもの鉄くずを持ち上げて荷台に積み込みます。30~40の回収所と取引がありました。時には廃品回収所の仕事も手伝い、信用を広げました。月に3000元ほどの収入があり、親に月300~500元を仕送りしていました。将来はチチハルに家を購入し、親を呼ぼうとしていました。母も喜んでいました。あと2~3年で実現できると思っていました。

2003年8月4日、朝4時から回収所を回っていました。午後1時頃、牛海英さんの回収所に着きました。強いカラシの匂いがしていました。鉄くずの量が少なかったので、着いてから座って本を読んで待っていました。2~3時間して鉄くずを回収して次に向かいました。夜家に帰ってからおしりに水泡ができました。妻と義父がみてくれました。マッチ棒の頭ぐらいの水泡だと言っていました。入院した後に牛さんから「毒ガス缶が転がされた所に座っていた」と聞きました。8月6日に203病院に入院しました。ピンセットで水泡をつまみ、腐った肉を手術用のナイフで削るのです。これを麻酔なしでやられました。

退院後、仕事を再開しようとしましたが、三輪車に乗れないのです。力がはいらず、汗もでます。得意先を回ると「もう来ないでくれ。アレがうつる」と言われました。うつらない、と言ってもダメでした。警備員の仕事に応募しましたが、「なぜ若いのにこんな仕事をしようとするのか」と聞かれ、正直に言うと採用してくれませんでした。それから田舎に帰りました。田舎に戻った時、母が泣きました。「息子の一生は台無しになってしまったのか」父も隣で涙を流しました。

現在の症状です。水疱のあとは黒っぽくなって痛みがあり、いつもかゆいです。長く座ることが出来ません。自転車にも乗れません。重い荷物も持てません。米袋やガスボンベも持ち上げられません。夜になると咳がでます。記憶力の低下も感じています。買い物を頼まれても種類が多いと覚えられないのです。以前はなかったことです。

生活はとても苦しく親の年金が月に600元あるだけです。食生活をきりつめ、節約をしています。肉や魚なしで野菜ばかりです。いつもの楽しい笑い声がなくなりました。妻からは「廃物」(中国語で役にたたないものという意味)と言われました。家の重荷は妻が背負っています。今年10月に女の子が生まれました。この子には早く大きくなって母の背負っている重荷を担ってほしいと願っています。医者になって患者の苦しみを解消してもらいたいというのが希望です。

(弁護士から本日本兵が日本政府にあてた報告書を見せられて)チチハルに出て来なければと自分を責めていましたが、もし日本政府が責任をもって処理していれば被害はおこりませんでした。日本軍が残した毒ガスを徹底的に撤去して、二度と事故がおこらないようにしてほしいです。私の人生、家族の人生を狂わせたので、医療と生活を保障してください。

第11回口頭弁論(2009/9/7)

火曜日, 6月 29th, 2010

みんな離れていってしまった、本人尋問で、龍国安さん

原告の龍国安さんの本人尋問です。

龍さんへの尋問を担当したのは井堀哲弁護士です。井堀弁護士はチチハル市内の地図を示し、第一現場である団地の駐車場と龍さんが被害にあった民族車体の現場の位置関係を確認しました。龍さんはこの地域で生まれ、小さい時からこのあたりの状況にとても詳しいのです。

龍さんは1962年生まれです。小さい時、第一現場になった駐車場は軍隊の敷地になっていたと言いました。外からのぞくと土がもりあがったようなところがありました。団地の建て替えがはじまるのは2001年です。それまでは軍隊の施設でした。さらにここは旧日本軍の飛行場があったことはチチハル中の人が知っています。つまりここに旧日本軍の飛行場があり、近くには格納庫が今も残っているということは動かすことの出来ない事実です。この地点に毒ガスが埋まっている可能性は非常に高く、日本政府が97年の化学兵器禁止条約締結後、その気になって捜していればみつけることができたはずのものです。

ここから龍さんの事故前の生活の話しになりました。龍さんの答えの概略です。

私は若い時、種苗会社の運転手をやっていて月100元ほどの収入がありました。92年にトラックを買って自立しました。運送業をはじめたのです。遠くから野菜や果物を運んで地元におろしました。2000年に民族車体に移りました。この会社は貨物輸送のトラックを購入した人が登録するときの手続きをドライバーにかわって代行する会社です。この会社は父が創立した会社で、従業員は10人ほどいました。そのうち5人は親族です。

登録後も保険の手続きなどのアフターサービスをしていました。私の仕事は公安局との信頼をとりつけることが中心でした。許可後の使用料などの相談にものりました。副業として運送業も手掛けていました。ドライバーもいて、順調に進んでいました。事故前の収入は年30万元ほどになっていました。5人家族で3人の女の子と幸せな生活をしていたのです。88年に結婚し、その後離婚して、92年に再婚しました。夫婦円満で、私は仕事、妻は家で家族の世話ということで、家族旅行にもよくいきました。地元の観光スポットにもよく行きました。ハルピンの氷祭りにも行ったことがあります。事故前は人もうらやむような充実した生活を送っていました。

2003年8月4日朝、民族車体に行きました。向いの団地から土が運びだされていくのを見ました。トラックの運転手に交渉して、トラック5~6台分の土を購入しました。その土で会社の敷地を整地しようと思ったからです。その後商談をして正午ごろ戻りました。駐車場に1.5mぐらいの土山が5~6個できていました。それから午後五時ぐらいまで整地作業をしました。体に異常を感じたのは六時すぎに帰宅した後です。全身のかゆみ、のどの不調、目もかすんできました。翌日出社すると、他の人の目も赤くなっていました。8月6日午後、皮膚に異常を感じました。両足のつめの色が変って黒くなっていたのです。14~20日まで203病院に入院しました。隔離されて、どんな病気かという説明もなく、失明するのでは、という不安がずっとありました。また他の患者の絶叫も不安を増幅させました。

退院後、体調がすぐれず、もとの仕事ができなくなりました。マス・メディアの報道によって毒ガスに感染したことが知られ、まわりの人が避けるようになりました。職場に行くと、親戚や同僚もあいさつをしただけで消えてしまうのです。公安局の人たちも避けるようになりました。運送業もやめてしまいました。雇ったドライバーもやめてしまい、車も売り払いました。体の症状では、目・喉の痛みに加え、頭がボーッとして混乱し、集中して物事を考えられなくなってしまったことです。いつもイライラしています。よく風邪もひきます。

くらしぶりの変化についても大変です。お金は妻に頼るしかなくなりました。以前は親戚の人のお金の工面をしていたほどでしたが、すっかり変ってしまいました。これまで週末に親戚が遊びに来ていましたが、今は居留守を使っています。労働能力がなく、仕事ができないし、収入もありません。妻とはよくケンカをするようになりました。家族とは別々に食事をとっています。下の娘に「お父さんは毒をもっている」といわれたのがショックでした。友だちも離れ、怒りっぽくなったと思います。乱暴な言葉使いにもなり、精神病になったのでは?と思うときもあります。

さびしさをまぎらわすために半年前から犬を飼っています。毎日犬をつれて外にいきます。一日の大半をそこですごします。多くの時間、川をながめてボーッとすごします。自分のことを考えると、被害にあって、人生がダメになりました。無為の人生を送るよりも飛び込んでしまおうと思ったこともあります。三人の子どものことを考えて思いとどまりました。

裁判官にひとこと、戦争中日本軍がやったことで、毒ガスが中国に残りました。被害を与え、家族にまで苦痛を与えています。一日も早く、化学兵器を撤去して平和できれいな環境を。合わせて被害者と家族への謝罪と補償もお願いします。

尋問を終わり、龍さんは傍聴席にむかって深々と頭を下げました。満場の暖かい拍手があったのは言うまでもありません。

藤井医師の証人尋問

レントゲンX線、良くなった例は一件もない、二度のハルピン検診で

龍さんの本人尋問に先立って、医師である藤井正實先生の証人尋問がありました。尋問担当は三坂彰彦弁護士です。すでに提出された藤井医師の意見書のポイントを確認するということで尋問がはじまりした。藤井医師が答えた内容を要約して示します。

私は、芝病院の副院長として、一般内科を中心に職業呼吸器、産業中毒などを専門としています。遺棄毒ガス被害者の検診にかかわるきっかけになったのは、これまでもじん肺訴訟にかかわってきたことから、2005年8月はじめてチチハルの被害者の検診をしました。皮膚障害をもっている方たちでした。胸部レントゲンもとりました。この人たちが就労できない、というのは呼吸器疾患が原因とは考えられません。

2006年3月にハルピンに行き、レントゲン撮影、喀痰検査などをしました。42名の検診をしました。私が直接診たのは30人です。就労できないほどの人がたくさんいました。これまでも産業中毒の人を見てきましたが、化学物質過敏症と似ています。自律神経系ではないかと感じました。2008年3月に再び、ハルピンで検診しました。その時は神経内科の検査もしました。大脳の問題で高次機能障害の恐れもありました。

イペリットによって呼吸器障害がおこっていることは争いがありません。慢性気管支炎になっています。被爆後数年で「慢性」の症状で出ているのです。気管支の粘膜をただれさせています。一度おきた炎症はなかなか治りません。非可逆的で、症状は同じ状態か悪化しているのです。原告41名のデータがあります。せき・痰の状況はフレッチャーの基準で慢性気管支炎と診断できます。レントゲンX線の異常所見は21名、06年から08年にかけて良くなった例は一件もありません。当初の被爆で重篤だった人ほど喀痰検査の異常が多くなっています。呼吸器検査でも軽度の末梢気道閉塞の人もいます。毒ガスによる細い気管支の炎症がおこっています。

免疫機能の低下について述べます。抵抗力の低下については、被爆直後に日本政府が調査した報告書でもあきらかです。骨髄を抑制し、免疫細胞を減らしています。肝機能障害についても数人の方にみられました。解毒をするというのが肝臓の機能ですが、これが毒ガスによって侵されているのです。

国側の反対尋問

というところで、国側の反対尋問にうつりました。国側の代理人は、被害者の症状が毒ガス被害との因果関係が証明できるのか、という視点にたって、ネチネチと藤井先生に尋問していましたが、藤井先生は、自分でおこなった検診と医師の識見をもって断固として国側代理人の尋問に答えていました。国側の意図は藤井先生には通じませんでした。

第9回口頭弁論(2009/5/11)

火曜日, 6月 29th, 2010

第9回口頭弁論で、被害状況の陳述(2009年5月11日)

5月11日、東京地裁の大法廷は遺棄毒ガスチチハル訴訟の原告代理人の準備書面の朗読がおこなわれました。佐藤香代弁護士からは被害の実態と現状を医学的見地から実証しました。

まず被害直後の悲惨な状況について述べました。

被害者全員が軍の203病院に隔離されました。この状況は事故から11日後に日本政府が派遣した調査団の報告書にも述べられています。この報告書によっても悲惨な状況は明かです。

被害者の中で唯一亡くなった方の状況は次のようです。受診時30%程度だった皮膚損傷が急速に95%に拡大し、ほぼ全身が糜爛するに至りました。血小板と白血球が著しく低下し、重症の敗血症で、急性心不全をおこし、事故後15日で亡くなったのです。

このように初期段階の調査で志望者と同程度の「特重度」に分類された原告は4人いました。この他にこの報告書では、重度16人、中程度11人、軽程度は12人とされました。

佐藤弁護士は、次に一向に改善しない慢性症状について述べました。事故から5年以上経過しても全身に複合的な健康被害をかかえています。

①呼吸器の疾患。毒ガスによる呼吸器疾患花街時間をかけて進行するといわれていますが、多くの被害者がこの症状をまわりがわかるくらいに進行しています。

②免疫力の低下。骨髄抑制の状態にある原告もいます。

③高血糖の状態。事故当時小学生だった原告も高血糖になっています。

④神経障害も深刻です。しびれ等の感覚異常、筋力の低下、自律神経の障害も認められたり、脳に対する生涯である高次脳機能障害も確認されています。

さらにこの総体として「易疲労性の問題」もあります。ほぼすべての原告が「疲れやすい」「動けなくなる」状況を訴え、胸が苦しくなる(胸悶・・・中国語でシュンムン)を訴える状況です。ある原告は「びらんがおきた陰嚢と足首は今もかゆく、湿っています。心まで伝わってくるようなかゆみです。咳はほぼ毎日でます。視力も低下しました。ものがぼやけて二重にみえます。ピントも調節できないし、まぶしさを強く感じます。性的な能力も落ちて、夫婦生活に支障をきたしています。シュンムンが出た時には、深夜でも耐え難く、外にでたりします。睡眠時間も今は3~4時間ぐらいです」などと述べています。

毒ガスの被害は、時間がたってだんだん改善されるというものではありません。毒ガス被害の恐ろしさは心臓疾患です。心臓に異常がある原告の多くは40歳代前半です。そしてもっとも恐れるのは発ガンです。検診を担当した医師も、今後必ず発ガンの問題が浮上すると警告しています。

次に全人生的な被害の状況を菅野弁護士から論述されました。被害者は事故当時学生だった者を除いて全員が就労していました。しかし事故後、易疲労性、筋力低下、眼障害、記憶力や集中力の低下などの複合的身体的被害のために、それまで従事していた仕事を失ってしまいました。

事故の2年前にチチハルに出てきた貧しい農民だった原告は、チチハルで廃品回収の仕事をおこない、鉄屑、貴金属を集め、売却することをおこなっていました。30キロの荷物をもっても平気で、収入も増え、くらしの見通しもでてきたといいます。ところが事故後10キロの荷物をもっても動悸がして休まなければならなくなったり、薪を斧で細かくするだけの作業も5分斗続かない状態で、力がはいらない、全身がだるい、などで就労できなくなりました。仕事ができなくなるということは収入が減っていくということで家族の生活にも影響がでていきます。一家の支え手としての役割を失ったことによる精神的苦痛も広がっています。ある原告の息子さんは大学入試に合格しましたが、経済的な紙上で進学を断念しました。

子どもの状況も深刻です。退院後、復学しましたが、黒板の字がみえない、記憶力が落ちた、風邪をひきやすいなどの状況にくわえ、まわりの友だちから「イペリット中毒」「伝染する」などといわれ、一緒に遊んでもらえなくなったりしています。まわりの風評被害も深刻です。身体的被害への無理解・・・「なまけ者だと誤解」、伝染するという誤った偏見、被害者自身の性格変化などが原因で友人関係の破綻もおこしています。ある原告はまわりの保護者から「登校させるな」という抗議があり、教室でも席を離されて授業を受けるなどによるなどで退学せざるを得なくなった原告もいます。

経済的な状態に言及すれば、収入がないので、政府からの給付金がなくなったら「死ぬしかない」という原告もいます。医療費の問題も大きいです。中国の医療費は高額で、保険制度の適用を受けないチチハル被害者たちは全額自己負担になっています。乏しい収入と莫大な医療費で生活困難は事故前とはくらべることのできないほど悪化しています。この状況は今後改善される見通しはありません。将来への不安をすべての原告がかかえています。仕事のこと、家族のこと、友人のこと、「事故の後、本当にすべてのことが変わってしまいました」と15歳の原告が語る言葉は深い悲しみと無力感を表すものです。

裁判所は深刻な被害を受け止め、救済の手をさしのべるべき、と菅野弁護士は結びました。

このあと報告集会にうつりました。その中で井堀弁護士は、参加者の質問にこたえ、この裁判の意義について「被害者の救済、遺棄毒ガス弾の処理は政治的に解決しなければならない問題です。一方で政治解決のはたらきかけを強めていますが、裁判で勝利することで、政治解決への弾みをつけていくことになります」と述べました。

チチハル8.4事件、訴状「請求の原因」

火曜日, 6月 29th, 2010

3 訴状において原告らが2の裁判を求める理由(「請求の原因」)

日本政府が賠償の法的責任を負う理由につき訴状は概ね以下のように述べています。

① 化学兵器の遺棄という先行行為に基づく危険除去の作為義務
そもそも、本件の原因は、旧日本軍が中国に配備した毒ガス兵器であり(日本政府も認める)、これは旧日本軍が敗戦時に遺棄したものと推測されます。
日本政府は、毒ガスという非人道的な兵器を製造・遺棄し、人の生命・身体に重大な危険を生ぜしめる行為を行った(先行行為)以上、その危険を除去し被害を防止すべき作為義務を負っていたものと言わねばなりません(危険除去の作為義務)。

② 日本政府は被害の予見ができたし、結果回避措置をとることもできた
日本政府としては、中国各地で毒ガスを配備し敗戦時に遺棄を指示した以上、毒ガス被害発生の予見は可能でしたし(予見可能性)、毒ガスが遺棄された危険な地域について情報収集をし中国政府に伝える等の措置をとれば本件のような毒ガスによる悲惨な事故発生を回避することも可能でした(結果回避可能性)。

③ しかるに、日本政府は、敗戦時から戦後60年余の間も、また前記の1999年の日中の覚書以後においても、毒ガスが遺棄されている地域について情報収集をする等の努力をするどころか、却って毒ガス兵器に関する資料を焼却するなどして重要な情報を隠滅・隠蔽する行為を行い危険除去を困難にしてきたのです。
これは、前述した危険除去の作為義務に違反したものであり、日本政府が、被害救済の責任を負わねばならない理由はここにあります。

④ こうした違法行為により、原告らは、毒ガスによる、完治不可能で、進行性・遅発性の重大な身体的被害とともに、就労不能等の様々な社会的・精神的被害をも含めた全人生被害ともいうべき損害を被っており、日本政府はこれに対する責任を負わねばなりません。

「裁判記録」書き加えました。

木曜日, 6月 24th, 2010

更新が久しく滞り申し訳ありません。右側メニューの「裁判記録」のところを書き加えました。でもまだまだ初期の頃のが追いついていないので、引き続き頑張ります。宜しくお願いいたします!!!

楊樹茂さんの証言

日曜日, 10月 25th, 2009

次回の裁判は、11月16日(月)11:00〜 東京地裁103号法廷 です。 

お待たせいたしました、やっと裁判記録の続きです。

10月19日の裁判で証言された、楊樹茂さん(写真中央。右のバンダナの男性は通訳の李楼さん。左端は、三橋医師です)の証言の要旨を紹介します。

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私は、青少年時代に非常に貧乏で苦労し、やっと自分の会社を立ちあげ、人の二倍も三倍も努力して、同業他社に負けない信用を勝ち取って営業していました。工事現場から出てきた土を買取り、自分の家の庭に使用したところ、毒ガス被害に遭いました。

病院で辛い治療をした後退院して、具合は悪かったのですが、生活もあるので、少しでも動けるなら、何かしなければと思って、自分の会社の仕事を再開しました。

ヒマワリの種(食用)を炒る仕事ですが、これは火加減がとても大切で、ずっと注意深く見ている必要があります。火力が足りないと送風機を動かしたり、火を足したりするのです。1回で作れるヒマワリの種の量は、約30キロです。

毒ガス事故に遭う前は、 30キロを約30分で作れていました。しかし、事故後は同じ仕事をしても全く違いました。頭痛と汗、いらだち、下痢で、全く力が入らないのです。30キロ作るのに40分ほどかかりました。全身がだるく、力が出ませんでした。動きが遅く、火加減を調節するのも遅くなってしまいました。集中しての火力調節ということが全くできませんでした。

結局、200キロ作るのに1日かかりました。事故前なら、毎日400キロは作っていました。朝6時に始めて、午後の1時か2時までです。

そして翌日、そんなにして作ったヒマワリの種を持って、妻と一緒に取引先を回りましたが、誰も声もかけてくれず、もちろん商品も買ってくれませんでした。取引先は、30軒〜40軒くらい回りました。スーパー、商店、露天商も。朝7時〜午後3時まで、回ったけれども全く買ってもらえませんでした。

辛く哀しく、泣きたい気持ちでした。妻ももちろん辛くて、悲しみました。体調といえば、全く耐えられないほどでした。家に帰ったらベッドに横になり、起き上がれませんでした。こんなわけで、せっかく無理して作った200キロのヒマワリの種も廃棄し、今までの仕事は続けられなくなりました。何か仕事を探さなければならない・・・と考えて、どこかの工場の門番の仕事を探しました。今までのような、たえず集中して何かをしなければならないような仕事はできないと思われたからです。

しかし、どこへ行っても雇ってくれませんでした。健康な人さえ、労働力が余っている時代です。毒ガス被害者と聞いて雇ってくれるところは全くありませんでした。

以前はバスケットボールをしていたのですが、もうできません。もしやったとしたら、汗、頭痛、下痢で背中も痛くなって、到底できないでしょう。

物忘れもひどくなりました。子供に何かやってくれといわれても、すぐやらないとすぐ忘れてしまいます。 そうすると子供の機嫌も悪くなります。長男の経営している食堂を手伝って、注文を取ったこともありますが、すぐに忘れるのでやらせてもらえなくなりました。

今の家族は、妻と、自分の両親と、次男と長女の6人家族です。その6人家族の生活費を、以前の収入では問題なく出せていましたし、ゆとり、貯金もありました。

しかし、今、借金がかさみ、だいたい20万元ほどになってしまいました。 生きるために借金をせざるを得ませんが、とても耐えられないほどです。やりきれなくて、悲しいです。事故前は、親戚や友達に、むしろ頼られる側だったのに・・・。借りたお金も全く返済のめどが立ちません。薬も買えず、最低限の痛み止めくらいです。

年取った父は、以前は隠居生活で村の年寄りと一緒に楽しく過ごしていましたが、私の事故後、ゴミ拾いの仕事を始めました。2ヶ月前に足が動かなくなってやめました。(ここで、泣き出してしまわれました)

私を含む被害者達への、生活・医療の保障を望みます。そして、二度とこのような被害が出ないようにしてください。私の願いです。

訴訟経過

水曜日, 4月 23rd, 2008

2008年4月時点までの訴訟経過です。次回は6月23日午後4時~東京地裁103号です。 

【2007年】
1月25日 提 訴
 

 6月6日 第1回   意見陳述 陳栄喜、王磊
 • 訴状内容の陳述

 9月3日 第2回   意見陳述 崔金山
 • 原告の主張  事実論①
 • 日本は毒ガスを製造して、中国に配備し、敗戦時に組織的に遺棄した。
 • チチハルは毒ガス配備の中心だった。

  12月3日 第3回  意見陳述 王春林
 • 原告の主張  事実論②
 • 日本政府は、戦後、国内に遺棄された毒ガスについては、様々な調査をしてその発見回収をしてきた。
 • しかし中国に遺棄した毒ガスについては発見のための手だてをとらなかった。

【2008年】
  3月10日 第4回  意見陳述 牛海英
 • 原告の主張  責任論 (日本政府が毒ガスについての戦後の対応について法的な責任を負わねばならない理由)
 • 遺棄した毒ガスの所在等を記録化し引き継ぎをすべき義務
 • 毒ガス発見回収の具体的措置をとるべき義務