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	<title>チチハル８・４被害者を支援する会</title>
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	<description>2003年8月4日に中国黒龍江省チチハル市で起きた、旧日本軍の遺棄化学兵器による事故の被害者を支援する弁護士と市民によるブログです</description>
	<pubDate>Sat, 21 Aug 2010 13:18:12 +0900</pubDate>
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		<title>お寺にお願い？</title>
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		<pubDate>Sat, 21 Aug 2010 22:18:12 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[フリートーク]]></category>

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		<description><![CDATA[今日は珍しく、チチハルの「大乗寺」の画像をお届けします。

どこにあるんですか？入場料はいくらですか？由来は？・・・などなどと突っ込まれると怪しいのですが、われらがガイド・コーディネーターの李楼さんに伺えばわかりますので、訪中時にはぜひ見学してみてください。

ところで佳縁ちゃんは、QQチャットの画面上で「熱が出ています・・・みなさん話しかけないでください・・・」というメッセージが出ていたので「心配だね。返信は不要ですがお大事に」と声をかけたところ、少し回復した後に返信が来ていました。「胃腸が弱くなりストレスで病気になります、たくさん薬を飲んでいます」だそうです。ますます心配ではありますが、私も仏教徒なので、大乗寺に「被害者の皆さんが可能な限り元気で過ごされますように」と願う気持ちでいます。
なんだか佳縁ちゃんのファンブログ（ストーカーと言わないで）のようになってしまいますが、他の原告のニュースも、どなたかから耳に入り次第、またお伝えします。
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		<title>佳縁ちゃん、北京へ</title>
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		<pubDate>Thu, 12 Aug 2010 21:10:30 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[フリートーク]]></category>

		<category><![CDATA[news]]></category>

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		<description><![CDATA[久々に、被害者の冯佳縁ちゃんのブログを拝見しました・・・♪
日本での思い出深い写真もお友達向けにアップされていて、楽しかったようです。支援者としては何よりです！
そして、７月１０日付で、「北京に行くけど、ハルビンやチチハルのお友達もみんな勉強頑張って、元気でね、みんなの友情は忘れない」という日記が発表されています。お友達からの応援コメントもたくさんついています。良いお友達に囲まれて何よりです。佳縁ちゃん自身も、北京でも元気で頑張ってほしい！遠くから願っております。
さて、その佳縁ちゃんがこのところメロメロにはまっている「王子」、中国アイドル俞灏明（ユィ・ハオミン）くんです。私はお名前も初耳だったのですが・・・。（すっかり芸能ネタについていけないおばさん）

読者諸姉のお眼鏡にはかないますでしょうか？私の第一印象は「ぶ～●～い～く」！！（ファンの方すみません）なのですが、最近あまりに整形等で異常なまでにきれいになってしまった韓流アイドルを見ていると、「不自然なのはよくないなぁ～」と違和感を感じているので、やはりありのままが一番だと思います。私は９０年代の韓国アイドルにはまっていたクチで、あの頃の「ちょいぶさ」君はよかったなぁ～。という見地からは、俞灏明（ユィ・ハオミン）くんにはホッとしたのですが、おばさんの好きなタイプの「ちょいぶさ」ではなかったのだ！
・・・という個人の好みのズレがあるから、万人受けにしようとしてみんな整形してしまうのですかね～。残念な芸能界でございます。
まっ、俞灏明（ユィ・ハオミン）さんも、私に好かれるより佳縁ちゃんに好かれたほうが嬉しいことでしょう！！
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		<title>８．４から７年</title>
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		<pubDate>Thu, 05 Aug 2010 10:22:12 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[８・４チチハル遺棄毒ガス事件]]></category>

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		<description><![CDATA[本来は、昨日８月４日に更新しなければいけなかったのですが１日過ぎてしまいました！ごめんなさい。
しかし、１日過ぎたところで、中国国内で改めて７年目に話題にしている記事などが無いのか、と色々検索してみました。が、どうも無いようです。。。なかなか、日本の世論もそうですが、中国の世論を動かすのも難しいものですね。
一番最近の記事で見つかったのが、「合肥電視台」の方で６月１４日に記事にしていただいているもので、李臣さんのお写真と一緒に、子どもが歩いてるようなところに無造作に捨てられた毒ガス弾の写真が載っています・・・。同じくらいの子ども達を持つ私には正視できないほどの衝撃です。
羅弁護士のインタビューも載っていますが、羅先生ご自身が、支援のお金を作るために住居を売ったことも書かれています。被害者はもちろん支援者の弁護士にまで、こんなに犠牲ばかりを強いていていいのか、とたいへん辛い思いになりました。


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		</item>
		<item>
		<title>チチハル大雨洪水</title>
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		<pubDate>Fri, 23 Jul 2010 16:39:55 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[フリートーク]]></category>

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		<description><![CDATA[久しく更新が遅れ申し訳ございません。
ヤフーチャイナのニュースを見ていたところ、大雨の被害画像が載っていました・・・。

「チチハル　暴雨」で中国インターネットを検索してみると、結構頻繁にあるようなのです。たくさん雨が降りやすい地域なのでしょうか。一部道路や橋も壊れたようです。
こんな大雨洪水では、被害者の体調も心配ですが、まだまだたくさん埋まっている毒ガス兵器も、流されて破壊し液が流れ出たりとか、川の中で場所が移動してしまったりとか、さまざまな新しい被害が出てくる可能性も多々あります。・・・本当に心配ですね。ちゃんとした調査・対策をしないことは許されないと思います。
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		</item>
		<item>
		<title>「裁判記録」地道にアップしています。</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 17:51:13 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[活動報告]]></category>

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		<description><![CDATA[こんにちは。なかなか更新ができず申し訳ないのですが、「支援する会」ニューズレター担当の大谷先生からデータを頂き、右側メニューの「裁判記録」をまとめています。それぞれの記録が長いので、全部続ける形にせず、１回ごとの裁判記録が別ウインドウで出るようにしました。ぜひ、今までの裁判を振り返ってみてください。
控訴審がいつになるのかなどは、分かり次第お伝えいたします！！
（写真はカメラマンの嶋村さん撮影、チチハルの街の風景）

]]></description>
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		</item>
		<item>
		<title>２０１０年５月２４日　東京地裁　第１審判決内容</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 17:42:18 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[裁判経過]]></category>

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		<description><![CDATA[◇　２０１０年５月２４日　東京地裁　第１審判決
原告の請求を棄却する。（敗訴）
第２　当裁判所の判断
１　請求原因（１）について
証拠（甲２０９、２１２、２１３、２１４、２１６の１、２２１、２２８の１、２２９～２４８、２５０～２６６、原告陳栄喜本人、原告陳紫薇本人、原告馮靖雯本人、原告龍国安本人、原告楊樹茂本人、原告李双義本人、原告施青本人、原告王立冬本人）及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
なお、以下で認定する月日の年は、全て平成１５年（２００３年）である。
（このあと、ほぼ原告側の主張どおりに、被害の事実が認定されています。）
２　請求原因（２）について
（１）前提事実
証拠（認定事実中に掲げたもの）によれば、以下の事実が認められる。
ア　毒ガス兵器に関連する条約
明治４０年（１９０７年）、日本を含む各国により署名された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」（ハーグ陸戦条約）は、その附属書である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」において、毒又は毒を施した兵器を使用することを禁止した（甲１の２４頁、乙１２の４２頁）。日本は、明治４４年（１９１１年）、同条約を批准した。
大正１４年（１９２５年）、日本を含む各国より署名された「窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」（以下「ジュネーブ議定書」という。）において、戦争における毒ガスの使用が禁止された（乙１２の１０２頁、乙２５の１００頁）。日本は、昭和４５年（１９７０年）、上記議定書を批准した（乙１２の１０７頁）。
イ　旧日本軍による毒ガスの生産
（ア）旧日本陸軍は、昭和４年（１９２９年）、広島県多くの字間の忠海兵器製造所で毒ガスの生産を開始し、昭和１３年（１９３８年）からは、福岡県の曽根兵器製造所で毒ガスを砲弾に詰めて化学砲弾を製造する作業を開始した（甲１の３頁、甲２９の８頁）。
旧日本海軍は、昭和１８年（１９４３年）以降、神奈川県の相模海軍工廠で毒ガスを生産した（甲１の３頁）。
占領期にアメリカ軍が入手した旧日本軍の毒ガス生産量に関する資料等に基づいて、旧日本軍の毒ガスの生産量が７３７６トンで、化学兵器の海外への配備量が２４８万８３０９発であり、そのうちの大部分が中国への配備に当てられたと推定する研究が報告されている（甲１の５～１３頁、甲３００の３９～４０頁）。
（イ）旧日本陸軍が製造した毒ガスのうち、糜爛（びらん）性ガス（イペリットガス及びルイサイトガス。イペリットガスはマスタードガスとも呼ばれる。）は「きい剤」、くしゃみ性・嘔吐性ガスは「あか剤」、催涙性ガスは「みどり剤」と呼称されていた（甲１の３～５頁、甲２９の７頁、甲３００の５～６頁）。「きい剤」が本件事故の原因となった毒ガスである。
ウ　毒ガス兵器の中国への配備・保管
（ア）旧日本軍は、昭和１２年（１９３７年）ころから、日本国内で生産した毒ガス兵器を中国に持ち込んで、中国内に駐留している各軍隊（北支那方面軍、中支那派遣軍、南支那方面軍等）に配備した（甲２９の８頁、甲３００の２０～２７頁）。
関東軍は、昭和１４年（１９３９年）、斉々哈爾（チチハル）において、化学兵器の研究、実験業務等を扱う化学部（通称５１６部隊）を、昭和１７年（１９４２年）、富拉爾基（現在のチチハル市フラルキ区）において、化学兵器の実験業務を行う化学部練習隊（通称５２６部隊）を、それぞれ編成し、終戦時まで駐屯した（甲５４の関東軍化学部略歴、同部練習隊略歴）。
（イ）旧日本軍においては、毒ガス兵器を含む化学兵器は、化学兵器用の特殊格納庫に貯蔵すべきものとされており（甲４の化学兵器取扱細則案３６条１項）、日本国内においては、毒ガス兵器が他の弾薬と区別されて地下に保管されることがあった（甲４１の５８、１４２，１９７頁）。
エ　毒ガス兵器の中国における使用
旧日本軍は、日中戦争の開始後、参謀総長からの使用許可の指示に基づき、昭和１２年（１９３７年）７月から「みどり剤」を、昭和１３年（１９３８年）４月から「あか剤」を、昭和１４年（１９３９年）５月から「きい剤」を、それぞれ中国において使用するようになった（甲１の２９、３０、４７頁、甲２、甲３００の２０頁）。
（以下、続く）
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		<item>
		<title>第１４回口頭弁論(2009/12/22)</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 17:35:44 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[news]]></category>

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		<description><![CDATA[チチハル裁判が事実上の結審（２００９年１２月２２日）
           原告・丁樹文さんが最終意見陳述
　　　　　弁護団も渾身の思いで国にせまる
被害者は私たちを最後にしてほしい、精神的・肉体的苦痛を味わうことがないようにに・・・丁樹文さん意見陳述
私は１９７９年にチチハルから190キロ離れた農村で生まれました。妻と娘がいます。事故前にはたくさんの夢がありました。中学にも進学しなかったため、子どもには良い学校にいれたい、自分の家も持ちたい、親孝行もしたい、などというものでした。生活を切り詰め、２年間で３万元を貯金しました。
事故のことを話したいと思います。第一現場となった工事現場で働いていた畢海岩さんから５つのドラム缶が出た、売り物になるからという電話があり、取りにいきました。以前にも畢さんからはくず鉄を買ったことがあるので、この時も三輪車で取りにいきました。５つのドラム缶のうち、ひとつは腐食していて、ひとつはこわれて液体がもれていました。毒ガスとはまったく思いもしませんでした。同僚の高権さんと一緒にドラム缶を手でかかえて運びました。マスタードの臭いがしましたが、廃棄油かと思っていました。そこへ今回の事件で亡くなった李貴珍さんと出くわして、李さんに２００元でこのドラム缶を売りました。李さんの三輪車にドラム缶を移しました。その時ドラム缶を手で触りました。李さんは毒ガスをさわった手でお札を数え、私に渡しました。私のお札も湿ってしまいました。
３ケ月入院し、退院してみると、我が子はハイハイができるようになっていました。子どももの成長が唯一の救いでした。妻や子に精神的・経済的負担をかけたことにとても苦しみました。治療もとてもつらいものでした。ますいもかけずに皮膚の水疱をつぶす治療は死んだ方がまし、と思うほどでした。退院後も早く仕事につきたいと就職活動をしました。建築会社、ダンボールの会社などで働こうとしましたが、できませんでした。以前より注意力が散漫になり、記憶力も衰え、体力もなくなっていました。以前軽く持ち上げられたものも持ち上げられなくなってしまいました。光の刺激に過敏になり、傷口も痛むなど仕事になりませんでした。仕事ができないとわかった時のつらさはなんともいえません。自分は役に立たない人間になったのか、と思ったり、家族の期待にも応えられない、というのはとてもつらいことでした。近所の友人・知人は「ブラブラしていてなまけている」とかげで言っていました。見た目の体はガッチリしていて、周囲の人に理解してもらえず、これもつらかったです。事故前の近所つきあいは、家の修理、調味料の貸し借り、食事の招待などをしていましたが、事故後は、みんな離れていきました。公衆浴場に行くと、私の体をみて離れていきます。結婚式に近所皆呼ばれているのに、私の家族だけよばれない、ということもありました。近所の親たちはうちの娘と遊ばせないようにしていました。私の方から、迷惑をかけたくないと考えて、人を避けるようになりました。友だちも少なくなり、ひっこしせざるを得ませんでした。気分的には楽になりましたが、毒ガス被害者と知られるかもしれないという恐怖感はいつもあります。毒ガス被害者ということは隠し通すつもりです。
被害者を代表して述べたいと思います。すべての被害者はそれぞれかけがいのないものを失いました。健康な体、仕事を失い、新しい仕事も見つからない、家族・親戚・助け合ってきた友人、将来の夢、生きる希望も失ってしまいました。皆将来に対しての不安を抱えています。治らない病気をかかえ、どこまで生きていけるのかわかりません。戦後何十年もたつのに、何の罪もない私たちが、なぜこんな被害をうけなければならないのでしょうか。加害者である日本政府は、原因究明もせず、被害者の前で説明もしていません。日本政府からの謝罪も受けていません、謝罪した上で、それにふさわしい弁償をしてほしいと思います。生涯にわたる医療支援、生活支援をしてください。裁判所は正義の判決を信じています。
日本政府は、精神的・肉体的苦痛を同胞が味わうことがないように、中国国内の膨大な化学兵器を処理してほしいです。
被害者は私たちを最後にしてほしい。
弁護士の最終意見陳述
＜事実論＞
井堀哲弁護士から、事実論についての意見陳述がなされました。本件はチチハルのマンション工事現場から５つのドラム缶が発見され、４４名の被害がでて、そのうちの１名が亡くなったという事件です。戦後６０年近くたって、ロシア国境近くでおこったものです。被告・国が認めたのは、独ガスは旧日本軍が製造したもの、というだけです。チチハルがどういうところで、なぜ５つのドラム缶がなのか、なぜ放置されたのか、ということについて何も言っていません。この毒ガスは戦争がおわる前後に組織的に隠蔽されたのではないか、ということについても国は何も言っていません。
原告・弁護団・市民の努力でさまざまな事実が判明しています。現場となった場所は東西に民航路、南北につうこう街が走る交差する地点の敷地の西北隅にあります。
ここには戦前、長さ１５００ｍ、幅１００ｍのチチハル飛行場がありました。1931年９月に満州事変がはじまり、その年の10月には関東軍がチチハルを占領しています。満州航空株式会社をつくり、チチハル飛行場を建設し、格納庫、兵器処理施設、弾薬庫などを建設していました。2001年10月の時点まで弾薬庫の建物が存在していたことが確認されています。戦争当時、チチハルは対ソ戦略の拠点でした。５１６部隊という毒ガス部隊、５２６部隊という訓練隊もチチハルにおかれました。いくつかの毒ガス関連部隊が存在していたのです。ここでは毒ガスの貯蔵、実権演習もおこなわれていました。静岡の浜松飛行場で訓練したものを中心にチチハルでも演習がおこなわれていました。大量の毒ガスが常備されていました。弾薬庫の管理も厳重で、日本の敗戦時にそのまま遺棄されたのです。第三者にひきわたされた形跡はまったくありません。
被告・国はこれらの情報をきちんと収集したかどうかということです。復員局では1950年に調査をしています。部隊ごとの資料を作成し、1954年までに44,934名の聞き取りをしています。第六野戦兵器処では、弾薬を処理したが、武装解除まで間に合わなかった、という記録が残っています。昭和48年に旧軍毒ガス弾全国調査が国内についておこなわれ、敗戦直後に軍命で毒ガスを遺棄した証言がでてきました。このあと国内の調査で被害防止の処置がはかられました。これは国内だけで、国外の調査は実施していません。１９９９年に日中覚え書きができ、日本政府に廃棄義務が生じたのちも調査をしていません。こんなことが許されるでしょうか。
＜国の責任について＞
富永由紀子弁護士からは、国の責任についての意見が陳述されました。
 この事件は覚え書き後４年でおこった事故です。まず予見可能性についてです。旧日本軍がこの飛行場周辺に配備・遺棄したのははっきりしています。チチハルのことは熟知していたというべきです。戦中、チチハルで大規模な演習がおこなわれていたというのは当時の資料に明記されています。1972年時点でも国内の大久野島で事故がおこり、調査をし、三方原でも調査をしたのに、国外の調査をしませんでした。調査義務を怠ったのです。　次は、結果回避義務についてです。被告・国は予見できたはずです。このチチハルの毒ガス弾が付近の住民に被害をもたらすことは予見できました。チチハルで調査し、毒ガス弾を回収し、無害化することをしなかったのです。９７年に化学兵器禁止条約が発効し、９９年には、日中の覚え書きもできています。中国国内での事故を防止することはできたはずです。国の責任はあきらかです。
＜損害論＞
佐藤香代弁護士は、毒ガスが人体に及ぼす影響、社会的な被害について述べました。
 これまでの法廷で８人の原告、２名が映像で意見陳述をしたり、尋問に答えたりしました。この身体的状況と毒ガスとの関連は医師の証言もありました。この中で、これまで呼吸器障害、皮膚疾患が中心だった毒ガス被害の症状がそればかりではなく、その他の内科疾患、神経障害にも及んでいることが明らかになりました。視力の低下、目が痛い、頭が痛い、疲れやすい、頻尿、記憶力の低下、勉強ができない、血糖値の異常などの所見が原告の症状からはっきりしました。検診の結果、藤井医師の所見では呼吸器症状では４３人中、２１人に異常がありました。これはかったん培養検査でわかりました。しかも状況は深刻化していて、予想以上に悪くなっています。発ガン性の危険も指摘され、今後の悪化を防ぐための治療はかかせません。
神経内科の橘田医師の所見では、自律神経の障害がみられ、力がでない、ひんぱんにトイレにいく、などが就労不能の原因になっていると指摘しています。体温、血圧の異常もあり、ＣＶＲＲ検査では、高次脳機能障害もみられると言います。記憶力の低下や目の異常もありました。干さんは事故前には刺繍が得意でしたが、目の見え方の異常で、刺繍をするどころか寝たきりになってしまっています。このような重篤な状態になっている原告らに対して適切な医療体制が必要です。
学校生活や家庭生活も深刻です。陳紫微さんは事故当時１０歳でしたが、毎日楽しく学校も家でも生活していましたが、事故後、父と母の関係悪化に悩んでいます。楊樹茂さんは子どもの進学を断念しています。劉国安さんは食卓も別で、一日リビングで過ごし、心が病んでしまったと思っています。
国は、客観的な立証がない、と主張しますが、原告の現実を目の当たりにして、そんなことが言えるでしょうか。平和な時代に生きているのに、毒ガス被害者というレッテルをはられてしまって人生を狂わされたのです。この風評から逃れるために名前まで変えた馮嘉燕さんは「人間の命をもてあそぶな」とこの法廷で述べました。
＜相互保証論について＞
山下基之弁護士は、国側の主張する「相互保証論」に反論をくわえました。
国側は、中国の国家賠償法には、精神被害についての取り決めがない、上限も決まっているなどと主張しています。日本の国家賠償法の第６条は、この規定が書かれていますが、そもそもこの法は憲法違反の疑いがあります。憲法第１７条は「なにびとも・・・」と国籍を問わず、だれにでも国家賠償を請求する権利があることを書いています。原告は日本の国家の行為によって、中国で被害にあいました。現在の人権保障の考え方をすれば、国の主張は失当です。中国でも、現在精神的損害についての国家賠償を検討していて、明文化の動きもあります。実務的には、これも認められています。国際社会での位置を考えるべきです。
＜総括＞
最後に、小野寺利孝弁護士から、裁判所にむけて、総括的な意見が述べられました。
平和な時代におこった事故で被害にあった原告は、真相を知りたい、と訴えました。しかし、政治決着がはかられ、日本政府は今日まで被害者に謝罪していません。原告らは提訴する以外に道はなかったのです。弁護団は被害のすさまじさを前にこの原告の要求に応えようと調査を重ね、事実を明らかにする活動を続けてきました。しかし、被告・国の態度は遺憾の極みでした。
原告の被害事実の認識は訴状段階と比べても飛躍的に進化しています。被害事実が正確に判決に反映されることを強く望みます。その判決が日中両政府の認識を変える力になるはずだと信じます。
今、原告らの一生を狂わせた加害について、一体誰が法的責任を負うべきか、ということです。裁判官はこの問いかけに答えてほしいと思います。生涯にわたる充実した医療支援と人間の尊厳を保持するに足る生活支援が不可欠であることは誰の目にもあきらかです。判決で勝利するだけでは不十分で、現在の民主党・社民党・国民新党の連立政権は、判決を真摯にうけとめ、新支援策を創設するという政治判断があるという強い期待を抱いています。これは近時のハンセン氏病訴訟、中国「残留孤児」訴訟、トンネルじん肺根絶訴訟、Ｃ型肝炎訴訟、原爆訴訟といった制作形成型訴訟は判決を契機に国の政策の抜本的転換をもたらしました。私たちの期待は輝かしい成果をもたらした司法への信頼に基づきます。どうか、原告らの生きる唯一の希望の光を来春しっかり輝かせてください。
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		<title>第１３回口頭弁論(2009/11/19)</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 17:30:29 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[裁判経過]]></category>

		<category><![CDATA[８・４チチハル遺棄毒ガス事件]]></category>

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		<description><![CDATA[ ３人の本人尋問、幸せな人生と家族の団欒を返して
駐車場の工事現場の土の中に毒ガスのドラム缶があった・・李双義さん
最初の尋問は李双義さんです。尋問を担当したのは山下弁護士です。李さんの答えた要旨です。
私は１９６９年８月４日、５人兄弟の４番目として生まれました。ちょうど誕生日である２００３年８月４日朝７時から第一現場である地下駐車場の工事現場で作業を始めました。畢海岩さんから作業を引き継ぎました。地下駐車場予定地の掘削作業です。その作業は半分ほどすすんでいました。地下３ｍほどのところに５本のドラム缶が埋まっていたと畢さんから聞きました。そのドラム缶は予定地の北西角に置いてありました。掘削したところの土が一部黒ずんでいました。作業を続けるうちにカラシの匂いが強くなりました。タオルを顔にまいて作業を続けました。そのタオルは畢さんが身体をぬぐったものでした。
ユンボの運転手は１４年やっていました。1989年21歳で特殊免許をとりました。その時働いていた会社の社長が私の仕事ぶりをみて黒竜江省労働局に便宜をはかって申請してくれたものです。３年間レンガの精製工場で働きました。1992年義理の兄の会社、1994年新栄有限公司に移りました。年収は４万元ほどありました。ユンボの運転手は体力が必要です。小学校の時からバスケットの選手をやっていました。1988年には軍隊にはいっています。1993年に結婚、その年に男の子が産まれました。子どもが産まれて父親としての責任を感じるようになりました。
その子どもは今ハルピンのコンピューターの専門学校に行っています。学費は年15,000元かかりますが、友人から借金しました。事故に遭わなければ成績もよかったし、大学に行かせたいと思っていました。息子が言うには「高校・大学のコースは時間もかかるし、お金もかかる。家にはお金がない。一日も早く技術を身につけ、稼ぎたい」というのです。妻の態度も事故後変わりました。ぐちやうらみごとを言うようになりました。今はよくしてくれていますが・・・。今は妻の収入だけでくらしています。月収は1500～1700元ほどです。治療費が月に3000元ほどかかりますが、借金で工面しています。
今、股関節が壊死し、半月板の損傷、骨沮喪症といわれています。座っている時間が長いと腰が痛くなります。しゃがむことができず様式トイレでないとできません。落ちているものを拾うのも痛いです。医者からは若いのに６０歳ぐらいの骨だといわれました。仕事をしたくても体力がついていかずできません。病院に入院している時、王成さんと亡くなった李貴珍さんと同室でした。目に包帯をされていて見えませんでしたが、声は聞こえました。痛くて叫んでいる声が聞こえ、とても怖かったです。目の包帯は10日ほどでとれました。今も目の前に霞みがかかっているように感じます。事故後、毒ガス被害は感染すると言われ、友だちが離れていき、とても寂しく孤独感を感じました。妻は事故に憤りを感じています。夫が仕事ができず、幸せな家庭をこわしてしまった、と言っています。私は障害者になり、治療に専念しています。妻はいたわって面倒をみてくれています。感謝しています。
 日本政府に強く求めます。一刻も早く毒ガスを処理し、同胞が二度と被害にあわないようにしてほしい。
毒ガスで汚染された土を知らずに土嚢につめていた・・・施青さん
昼食をはさんで午後の尋問は施青さんからです。尋問担当は南弁護士です。施青さんの答えた要旨です。
私は1951年生まれです。チチハル北方の農村で生まれました。経済的に苦労し、食べるものも事欠く状態でした。1972年結婚し、22歳の時に長女、28歳の時に長男が生まれ、とても幸せでした。農業をしていましたが、39歳の時に小さな雑貨店を開き、廃品回収業も始めました。農業だけでは豊かな生活ができないと思ったからです。子どもたちと年老いた親のためでした。2000年からチチハル市内に出稼ぎに行くようになりました。息子が結婚し、二世帯住宅を建てるために借金をしたからです。借金は7000元です。出稼ぎは工事現場でセメントを運ぶ仕事です。ふだんは工事現場で50kgほどのセメントの袋をミキサー機まで運び、流し込む仕事をしています。一日にこの袋を200～300ぐらい運びました。朝の４時から夕方の６時まで仕事をし、残業もありました。
事故の日、昼間（朝４時から夕方６時まで）は５階建ての建物工事のコンクリート運びの６番現場で作業をしました。事故があった２番現場の地下駐車場工事の現場では夜の８時から真夜中の０時まで働きました。掘った土がまわりに積み上げられていましたが、それが中に流れ込まないように土嚢を積み上げる仕事でした。土を袋に詰めていきます。シャベルで土を救う人がいて、袋を口をあけ、その土を詰め、運ぶ人の背中に渡していました。シャベルで掬った土が私の身体にたくさんつきました。５日になって、左足のすね、右足、陰嚢に水泡ができました。食あたりかな、と思っていましたが、リーダーの陸さんから病院に行くように言われました。２０３病院に１０３日入院しました。病室には解放軍が見張りにたっていて、恐怖を感じました。いつも被害者の声が聞こえていました。うめき声で声がでなくなった人もいました。妻につきそいを頼みましたが「うつるから・・」と言われて断られてしまいました。
退院して村に戻った時は、収穫した大豆を脱穀する時期でした。手伝おうとしましたが、力が出ないのです。両手に力がはいりません。２～３回やりましたが、そのあとできなくなりました。簡単な作業もできなくなったのでとてもつらいです。日本のことをうらみました。日本軍が毒ガス兵器を残さなければこんな自分にはならなかった、と思いました。息子が「お父さん、本当に仕事ができないの？なまけているのではないか」と言いました。力がでない、足もむくんでいる、仕事ができないのです。息子を叱ったので、それからは言いません。今は朝起きて、孫娘を幼稚園に送り、テレビなどをみて、昼にまた孫を幼稚園に迎えに行くという日々です。
今の症状です。のどにはいつも異物がつまっているように感じています。息が苦しくなることもあります。胸も痛くて苦しいです。足のすね、陰嚢はいつもかゆい状態が続いています。薬を常用しています。目もかすんでいます。光を見ると目が痛くなります。事故後、風邪を引きやすくなりました。月に２～３回ひくという状態です。身体もむくんできて、水を控えています。１日に20回もトイレにいきます。前にはなかったことですが、下痢が続き、汗もでるようになりました。感情の動揺があり、記憶力も低下したと感じています。性生活もできなくなりました。  
娘夫婦にいわれ、娘のいる除州に移りました。娘は花屋をやっていますが、花に水をやる程度の手伝いしかできません。デッキチェアに横になっているだけです。泥のようになって力がでません。テレビをみているだけです。働いている人を見ると自分は何もできず、イライラします。自殺しようとしてはさみを隠していました。夫婦ゲンカの時自分で刺して死のうと思っていました。娘の夫の親が発見し、とりあげ説得してくれました。これから生きていくことを思うととてもつらいです。妻も糖尿病を患っています。息子のところも経済的に困難です。病院に行くと入院しなさい、と言われますが、入院費が高くて入院できません。薬でなんとかしています。一番つらいことは仕事ができないことです。
日本政府には、被害をおこした兵器を取り除いてほしい、私の身体と心の痛みは化学兵器のせいでおこっています、家族の団欒も幸せも取り戻して欲しい、私のような被害者を出さないようにしてほしい、と言いたいです。裁判所は一日も早く被害者のために正しい判決をだしてほしいです。
毒ガスのドラム缶が転がされたところに座っていた・・・王立冬さん
最後は王立冬さん（尋問当日、具合が悪くなり病院で診察を受けてから裁判所に到着）（尋問担当の穂積弁護士から）コーディネートしている人が今朝迎えに行くと、ふとんをかぶって寒い寒いと言っていたそうです。来日した３日前はそうではありませんでした。
　～～ここから本人～～
２日前から下痢、頭痛が続き、力がはいらず、めまいもあり、暑くないのにあせをかきます。病院で解熱剤・頭痛薬・はきけ止め・整腸剤をもらってきました。
月に２～３回風邪をひきます。一回症状がでると回復するのに７～８日かかります。月の半分以上は体調が悪いのです。被害前はこんなことはありませんでした。（今日の治療費は診察に6636円、薬に1953円、計8589円かかりました。弁護士から）中国では看護士に家にきてもらい点滴を打ってもらい、200～300元かかります。
２００２年にチチハルに引っ越しましたが、それまではチチハルから100キロほど離れた克山県に住んでいました。そこはたいへんな田舎です。両親と妻と４人ぐらしでした。母は呼吸器の重い病気にかかっていました。三輪タクシーの運転手をやっていました。最高で月に2000元の収入がありました。競争が激しくなって月に1000元稼ぐのがやっとになりました。より良い生活をしようとチチハルに移りました。両親は田舎に残しました。チチハルでの仕事は鉄くずの回収です。仕事は順調でした。荷台付き三輪車で回収所を回って鉄くずを回収するのです。一日に500kgの鉄くずを運びました。一回では50kgもの鉄くずを持ち上げて荷台に積み込みます。30～40の回収所と取引がありました。時には廃品回収所の仕事も手伝い、信用を広げました。月に3000元ほどの収入があり、親に月300～500元を仕送りしていました。将来はチチハルに家を購入し、親を呼ぼうとしていました。母も喜んでいました。あと２～３年で実現できると思っていました。
２００３年８月４日、朝４時から回収所を回っていました。午後１時頃、牛海英さんの回収所に着きました。強いカラシの匂いがしていました。鉄くずの量が少なかったので、着いてから座って本を読んで待っていました。２～３時間して鉄くずを回収して次に向かいました。夜家に帰ってからおしりに水泡ができました。妻と義父がみてくれました。マッチ棒の頭ぐらいの水泡だと言っていました。入院した後に牛さんから「毒ガス缶が転がされた所に座っていた」と聞きました。８月６日に２０３病院に入院しました。ピンセットで水泡をつまみ、腐った肉を手術用のナイフで削るのです。これを麻酔なしでやられました。
退院後、仕事を再開しようとしましたが、三輪車に乗れないのです。力がはいらず、汗もでます。得意先を回ると「もう来ないでくれ。アレがうつる」と言われました。うつらない、と言ってもダメでした。警備員の仕事に応募しましたが、「なぜ若いのにこんな仕事をしようとするのか」と聞かれ、正直に言うと採用してくれませんでした。それから田舎に帰りました。田舎に戻った時、母が泣きました。「息子の一生は台無しになってしまったのか」父も隣で涙を流しました。
現在の症状です。水疱のあとは黒っぽくなって痛みがあり、いつもかゆいです。長く座ることが出来ません。自転車にも乗れません。重い荷物も持てません。米袋やガスボンベも持ち上げられません。夜になると咳がでます。記憶力の低下も感じています。買い物を頼まれても種類が多いと覚えられないのです。以前はなかったことです。
生活はとても苦しく親の年金が月に600元あるだけです。食生活をきりつめ、節約をしています。肉や魚なしで野菜ばかりです。いつもの楽しい笑い声がなくなりました。妻からは「廃物」（中国語で役にたたないものという意味）と言われました。家の重荷は妻が背負っています。今年10月に女の子が生まれました。この子には早く大きくなって母の背負っている重荷を担ってほしいと願っています。医者になって患者の苦しみを解消してもらいたいというのが希望です。
（弁護士から本日本兵が日本政府にあてた報告書を見せられて）チチハルに出て来なければと自分を責めていましたが、もし日本政府が責任をもって処理していれば被害はおこりませんでした。日本軍が残した毒ガスを徹底的に撤去して、二度と事故がおこらないようにしてほしいです。私の人生、家族の人生を狂わせたので、医療と生活を保障してください。
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		<title>第１２回口頭弁論(2009/10/19)</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 17:23:15 +0900</pubDate>
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		<category><![CDATA[news]]></category>

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		<description><![CDATA[楊樹茂さん本人尋問で、胸悶（胸が圧迫され、息が苦しくなり、体も痛くなる）
はじめは楊樹茂さんの本人尋問です。担当は富永由起子弁護士です。富永さんは、単刀直入に被害事実から尋問にはいりました。楊さんが答えた要旨は次の通りです。
私はひまわりの種を加工する工場を経営していました。自宅兼工場が建設途中でした。自宅の庭にはひまわりの種を加工する機械を庭に置きました。２００３年８月４日にトラック５台分の土を買いました。自宅の庭にこの土の山が５つできました。忙しかったので、この土を使っての作業は８月１１日におこないました。土の山に昇り、スコップで土をまわりにまきました。その日のうちに右足のかかと、くるぶしの外側、内側、左足のくるぶしの外側に最大３cmほどの水疱ができました。次の日もそのままにしていたら、水疱はだんだん大きくなり、色も濃くなり、目にも異物がはいったように感じて、８月１４日に２０３病院に行きました。そこでは、水疱をつぶす、点滴をするためにベットにしばりつけられる、などの治療をしました。入院は３ケ月に及びました。医者からは「治らない」と言われました。退院して仕事を再開しようとしました。生活があるので、仕事をしなければならないと思いました。しかし、毎日だるさがあり、汗もかき、頭痛もします。
ひまわりの種を商品にするのは、まず種を煎って、送風機で乾燥させます。煎る時の火力も調節しなければなりません。一時も目を離すことができないほどたいへんです。事故に遭う前は一回30kgを30分ぐらいでできたものが、体力がおちて、40分ほどもかかりました。頭痛がして、汗が出て、気持ちがイライラします。力がはいらないのです。事故前には一日400kgもつくっていました。仕事を再開しようとした時、ためしに200kgの種を作りました。次の日に得意先をまわりましたが、誰も声をかけてくれず、商品もまったく売れませんでした。朝７時から午後３時までスーパーや商店、露天商をまわりましたが、一軒も買ってくれませんでした。私が毒ガスの被害者だということが報道され、わかっていたので、買ってくれなかったのです。つらくて悲しかったです。このひまわりの種はゴミとして捨ててしまいました。家に戻り、ベットに横になり、起きられませんでした。もうこの仕事はできないと思いました。
妻もつらい思いをしています。私は他の仕事も探しました。工場の門番のような仕事を探しましたが、雇ってくれるところはありません。　胸悶の症状についてお話します。胸が圧迫され、息が苦しくなり、体も痛くなります。汗が全身に出て、特に手のひらやひたいにでてきます。こうなると、頭痛がしたり、頭がしめつけられるように感じたり、手に力がはいらなくなります。手首がいうことをきかなくなります。こういう症状はいつでるかわかりません。症状がでると気持ちがイライラします。居ても立ってもいられないのです。昔バスケットをやっていましたが、今はまったく体が動きません。
物忘れもひどくなり、買い物に行っても全部そろえられないこともあります。子どもに言われてもできないこともあります。息子の食堂を手伝っていますが、注文をとっても忘れてしまい、やらせてもらえません。以前はこんなことはありませんでした。80軒の得意先を回っても記憶に問題があったことはありません。
経済的にも大変です。事故前は月に4000元から5000元の収入があり、生活には問題ありませんでした。貯金もありました。今は妻のアルバイトの収入が中心です。私の薬代が月に7000元ほどかかります。親戚から借金をしている状態です。借金は20万元もあります。事故の翌年次男は高校を中退しました。大学進学の希望がありましたが、その希望も実現しませんでした。長女も高校を中退しました。子どもからは相談はありませんでした。いきなり学校に行かなくなったのでわかったのです。経済的な理由です。薬も最低限しか買えません。痛み止めぐらいです。免疫力の低下が言われていますが、食事もきちんととれません。症状は日に日に悪化しているように感じます。
父は地主階級だったので、苦労しています。小さい時は貧しかったけれど、努力して両親にいい生活をさせたい、子どもにも良い教育をさせたいと思っていました。この夢が実現寸前になっていたのです。自宅兼工場が完成間近でした。今、父がこんな私をみて、家計を少しでも助けようとゴミ拾いをしています。
私はかつて幸せで安定した家庭がありましたが、今はすべてありません。自分自身、これで終わりにしようと思うこともありました。両親と子どものことを考えるとそれもできませんでした。健康な身体をとり戻したいと思います。この法廷で公正を取り戻したいです。
橘田医師の証人尋問・・・化学物質が血流を通って全身に回っている、毒ガスが原因で神経障害がおこっている
午後は、まず橘田亜由美医師の証人尋問からです。主尋問の担当は佐藤香代弁護士です。最初に「神経内科」についての質問からはじまりました。神経内科というのは何かということを、橘田さんはわかりやすくていねいに答えていました。概要を書きます。
神経内科というのは、脳や脊髄、自律神経のなど高次機能障害についてみます。心療内科、精神科とは違います。心療内科はノイローゼなどの心因性の問題を扱います。精神科というのは、統合失調症などの症状を扱います。私が神経内科になってから５年で、月に４００名ほどの患者をみています。
神経の分類と機能についてお話します。中枢神経と末梢神経があります。中枢神経は大脳・脊髄などで高次機能障害にかかわります。末梢神経は自律神経と体性神経にわかれます。体性神経は感覚神経と運動神経に分類されます。
（１）感覚神経のことからはじめます。毒ガス被害は患部だけの神経だと思っていました。しかし、大脳・小脳にも障害があることがわかりました。触覚検査・痛覚検査をしました。皮膚のびらん面の異常感覚だけではなく、全身に異常感覚が広がっています。手足の先端、右半身に異常感覚がある人もいます。化学物質が血流を通って全身に回っているのです。これは水俣病、ヒソ中毒の患者にみられるものです。
（２）運動神経についてです。握力検査、徒手筋力検査をしました。筋力は６段階にわかれます。腕の関節が重力がある状態で曲げられるものを５、まったく曲げられないものを０とします。多くの被害者が３ないし４の状態でした。筋力が弱っていることを示しています。理学療養士が検査をしました。握力については、易疲労性を調べます。１０回連続で検査をして、普通は５回までは握力は低下しないのです。しかし、５回検査をしなくても握力の低下がみられました。さらに、もともと握力が低いのです。日本人の平均握力は40～45歳の男声で４９ですが、今日尋問にたった楊さんは１６．８でした。
（３）自律神経についてです。自律神経というのは副交感神経ともいわれ、血圧をさげたり、脈拍数を調節したりします。この異常については冷水テストで確かめます。冷水に１分間手をつけていて血圧を調べます。普通は血圧があがります。１０以上の血圧上昇が普通です。この時血圧上昇が１０以下の人は異常と診断されます。またジルマテストといって涙腺の量を調べるテストもしました。涙が少ないのです。自律神経の異常で分泌が少ないのです。ドライアイとよばれる症状です。
自律神経関連では、①発汗の異常です。暑い時など体温調節で発汗しますが、被害者の多くは手のひらに汗をかいたり、暑くないのに汗をかくひや汗のような汗がありました。②頻尿もあります。被害者は比較的若い層が多いので前立腺肥大は考えにくいです。それでも頻尿がありました。このふたつは検診中に現認しています。③インポテンスについても自律神経の関連だと考えられます。性的興奮でも勃起しないのです。この部分では、多角所見は難しいのですが、自律神経障害がでにくい若い集団で多くのデータが得られたのです。
これらの診察から、毒ガスとの関連についてですが、被害後に症状が出たということから考えれば、毒ガスが全身に回っておこったと考えるのが妥当です。生活を疎外する要因になり、就労の疎外要因にもなっています。さらに回復可能性ですが、被爆後６年たっていてもこういう症状がでているということで永続的にこの症状が続くと考えられます。　
（４）高次機能障害についてです。記憶は大脳が司っています。記憶力の検査をするには三宅式検査を行いました。有関係対語を１０組提示し、くりかえしてもらいます。海・船、春・秋などというものです。３回やればだいたい全部言えます。しかし、２個、３個ぐらいしか言えないという被害者がほとんどでした。これは短期記憶障害となります。被害者の多くは短期記憶障害と判断されました。毒ガスの成分が大脳に侵入したと考えられます。血液脳関門というバリアがあり、有害物質を脳にいれない機能がありますが、これを超えてしまったということです。知能検査で知能の低下は軽度なのに、記憶障害が目立っています。つまり脳の全般的な力が低下するのではなく、記憶力の部分が低下しているのです。マスタード被害と記憶力障害について記された文献にも80％の被害者に記憶力低下がみられたというのがあります。
 また、ものがゆがんで見える、実物より小さく見えるなどの視覚障害もみられました。まともに指をあわせられない視覚失調、目で見ただけでは判断できないでさわってわかるという視覚失認、色盲でないのに色覚障害があるなどというのは大脳性の障害です。脳の広範囲にケミカルな物質がはいったということです。
  最後に分類不能の障害についてです。中国語で胸悶（シュンムン）と言われています。少しの労作で発汗し、胸がドキドキしてしめつけられるように感じ、苦しくなって動けなくなる症状です。神経障害の一環だと考えられます。いろいろな自律神経を小さなストレスや刺激されることによっておこります。疲れやすい、力が出ないという易疲労性です。一分間の踏み台昇降やスクワットの検査でも途中でダメになる人が多くありました。
仕事ができない、というのは疲れやすいなど自律神経障害、短期記憶障害と考えられ、被害者の訴えと診断した結果を総合的に判断して自律神経障害と診断してよいと考えます。今後この症状がすすむとは考えにくいですが、二次的に廃用性、筋力低下、抑鬱などで症状がすすむことも考えられます。先例も報告もないのでさらに精度の高い検査たとえばＭＲＩなどをすると良いと思います。そうして原因を明にしてほしいです。さらに被害者は医療的ケアをうけていないので、診察で症状を軽減できるので医療保障はぜひとも必要です。
このあと、国側代理人による反対尋問がありましたが、些末な細かなことを聞くだけでたいした内容はありませんでした。
ビデオ上映・于景芝さん・・・罰をうけているようです。
この日の裁判の最後は今回来日できなかった于景芝さんのビデオ上映です。于さんは自宅の庭を整地しようとして、毒ガス被害にあいました。今年６月に于さんの自宅で撮影したものです。激しく咳が頻繁にでている様子、食欲がでない状態、ベットの上でずっとすごす状況などがリアルに示されました。この中で于さん自身が「入院した方が良いといわれるが、お金がないので家で寝ているだけ」「頭痛がして、頭がしめつけられるようだ」という言葉が印象的でした。
また、ベットの上での検査の様子も映し出されました。色覚異常の検査では、何度も見ていると皆「黒」く見えることがわかりました。また、絵を描いてもらいましたが、その形状を正しく描くことがなかなか難しいこともわかりました。ベットの上にあるものを取ってほしいと言われて、手をだしますが、空をとってしまうという状況も示されました。  ビデオの最後に于さんは「罰を受けているようです。生きていたくありません。子どもたちは杭州に出稼ぎに行っていますが、稼いだお金は皆私のために送ってくれます。私が早く死ねば子どもは楽になります。家には食べ物もありません。夫も苦しんでいます」と言われました。
このビデオは実際の生活の場で原告たち被害者がどんなに苦しんでいるかをリアルにみることができました。証人尋問で橘田先生が証言した事実が映像としても確認することができたと思います。傍聴者はもちろん、裁判官も熱心にビデオをみて被害の実態を肌で感じ取ることができました。
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		<title>第１１回口頭弁論(2009/9/7)</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 17:15:22 +0900</pubDate>
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		<category><![CDATA[裁判経過]]></category>

		<category><![CDATA[８・４チチハル遺棄毒ガス事件]]></category>

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		<description><![CDATA[みんな離れていってしまった、本人尋問で、龍国安さん
原告の龍国安さんの本人尋問です。
龍さんへの尋問を担当したのは井堀哲弁護士です。井堀弁護士はチチハル市内の地図を示し、第一現場である団地の駐車場と龍さんが被害にあった民族車体の現場の位置関係を確認しました。龍さんはこの地域で生まれ、小さい時からこのあたりの状況にとても詳しいのです。
龍さんは１９６２年生まれです。小さい時、第一現場になった駐車場は軍隊の敷地になっていたと言いました。外からのぞくと土がもりあがったようなところがありました。団地の建て替えがはじまるのは２００１年です。それまでは軍隊の施設でした。さらにここは旧日本軍の飛行場があったことはチチハル中の人が知っています。つまりここに旧日本軍の飛行場があり、近くには格納庫が今も残っているということは動かすことの出来ない事実です。この地点に毒ガスが埋まっている可能性は非常に高く、日本政府が９７年の化学兵器禁止条約締結後、その気になって捜していればみつけることができたはずのものです。
ここから龍さんの事故前の生活の話しになりました。龍さんの答えの概略です。
私は若い時、種苗会社の運転手をやっていて月１００元ほどの収入がありました。９２年にトラックを買って自立しました。運送業をはじめたのです。遠くから野菜や果物を運んで地元におろしました。２０００年に民族車体に移りました。この会社は貨物輸送のトラックを購入した人が登録するときの手続きをドライバーにかわって代行する会社です。この会社は父が創立した会社で、従業員は１０人ほどいました。そのうち５人は親族です。
登録後も保険の手続きなどのアフターサービスをしていました。私の仕事は公安局との信頼をとりつけることが中心でした。許可後の使用料などの相談にものりました。副業として運送業も手掛けていました。ドライバーもいて、順調に進んでいました。事故前の収入は年３０万元ほどになっていました。５人家族で３人の女の子と幸せな生活をしていたのです。８８年に結婚し、その後離婚して、９２年に再婚しました。夫婦円満で、私は仕事、妻は家で家族の世話ということで、家族旅行にもよくいきました。地元の観光スポットにもよく行きました。ハルピンの氷祭りにも行ったことがあります。事故前は人もうらやむような充実した生活を送っていました。
２００３年８月４日朝、民族車体に行きました。向いの団地から土が運びだされていくのを見ました。トラックの運転手に交渉して、トラック５～６台分の土を購入しました。その土で会社の敷地を整地しようと思ったからです。その後商談をして正午ごろ戻りました。駐車場に１．５ｍぐらいの土山が５～６個できていました。それから午後五時ぐらいまで整地作業をしました。体に異常を感じたのは六時すぎに帰宅した後です。全身のかゆみ、のどの不調、目もかすんできました。翌日出社すると、他の人の目も赤くなっていました。８月６日午後、皮膚に異常を感じました。両足のつめの色が変って黒くなっていたのです。１４～２０日まで２０３病院に入院しました。隔離されて、どんな病気かという説明もなく、失明するのでは、という不安がずっとありました。また他の患者の絶叫も不安を増幅させました。
退院後、体調がすぐれず、もとの仕事ができなくなりました。マス・メディアの報道によって毒ガスに感染したことが知られ、まわりの人が避けるようになりました。職場に行くと、親戚や同僚もあいさつをしただけで消えてしまうのです。公安局の人たちも避けるようになりました。運送業もやめてしまいました。雇ったドライバーもやめてしまい、車も売り払いました。体の症状では、目・喉の痛みに加え、頭がボーッとして混乱し、集中して物事を考えられなくなってしまったことです。いつもイライラしています。よく風邪もひきます。
くらしぶりの変化についても大変です。お金は妻に頼るしかなくなりました。以前は親戚の人のお金の工面をしていたほどでしたが、すっかり変ってしまいました。これまで週末に親戚が遊びに来ていましたが、今は居留守を使っています。労働能力がなく、仕事ができないし、収入もありません。妻とはよくケンカをするようになりました。家族とは別々に食事をとっています。下の娘に「お父さんは毒をもっている」といわれたのがショックでした。友だちも離れ、怒りっぽくなったと思います。乱暴な言葉使いにもなり、精神病になったのでは？と思うときもあります。
さびしさをまぎらわすために半年前から犬を飼っています。毎日犬をつれて外にいきます。一日の大半をそこですごします。多くの時間、川をながめてボーッとすごします。自分のことを考えると、被害にあって、人生がダメになりました。無為の人生を送るよりも飛び込んでしまおうと思ったこともあります。三人の子どものことを考えて思いとどまりました。
裁判官にひとこと、戦争中日本軍がやったことで、毒ガスが中国に残りました。被害を与え、家族にまで苦痛を与えています。一日も早く、化学兵器を撤去して平和できれいな環境を。合わせて被害者と家族への謝罪と補償もお願いします。
尋問を終わり、龍さんは傍聴席にむかって深々と頭を下げました。満場の暖かい拍手があったのは言うまでもありません。
藤井医師の証人尋問
レントゲンＸ線、良くなった例は一件もない、二度のハルピン検診で
龍さんの本人尋問に先立って、医師である藤井正實先生の証人尋問がありました。尋問担当は三坂彰彦弁護士です。すでに提出された藤井医師の意見書のポイントを確認するということで尋問がはじまりした。藤井医師が答えた内容を要約して示します。
私は、芝病院の副院長として、一般内科を中心に職業呼吸器、産業中毒などを専門としています。遺棄毒ガス被害者の検診にかかわるきっかけになったのは、これまでもじん肺訴訟にかかわってきたことから、２００５年８月はじめてチチハルの被害者の検診をしました。皮膚障害をもっている方たちでした。胸部レントゲンもとりました。この人たちが就労できない、というのは呼吸器疾患が原因とは考えられません。
２００６年３月にハルピンに行き、レントゲン撮影、喀痰検査などをしました。４２名の検診をしました。私が直接診たのは３０人です。就労できないほどの人がたくさんいました。これまでも産業中毒の人を見てきましたが、化学物質過敏症と似ています。自律神経系ではないかと感じました。２００８年３月に再び、ハルピンで検診しました。その時は神経内科の検査もしました。大脳の問題で高次機能障害の恐れもありました。
イペリットによって呼吸器障害がおこっていることは争いがありません。慢性気管支炎になっています。被爆後数年で「慢性」の症状で出ているのです。気管支の粘膜をただれさせています。一度おきた炎症はなかなか治りません。非可逆的で、症状は同じ状態か悪化しているのです。原告４１名のデータがあります。せき・痰の状況はフレッチャーの基準で慢性気管支炎と診断できます。レントゲンＸ線の異常所見は２１名、０６年から０８年にかけて良くなった例は一件もありません。当初の被爆で重篤だった人ほど喀痰検査の異常が多くなっています。呼吸器検査でも軽度の末梢気道閉塞の人もいます。毒ガスによる細い気管支の炎症がおこっています。
免疫機能の低下について述べます。抵抗力の低下については、被爆直後に日本政府が調査した報告書でもあきらかです。骨髄を抑制し、免疫細胞を減らしています。肝機能障害についても数人の方にみられました。解毒をするというのが肝臓の機能ですが、これが毒ガスによって侵されているのです。
国側の反対尋問
というところで、国側の反対尋問にうつりました。国側の代理人は、被害者の症状が毒ガス被害との因果関係が証明できるのか、という視点にたって、ネチネチと藤井先生に尋問していましたが、藤井先生は、自分でおこなった検診と医師の識見をもって断固として国側代理人の尋問に答えていました。国側の意図は藤井先生には通じませんでした。
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