第11回口頭弁論(2009/9/7)
みんな離れていってしまった、本人尋問で、龍国安さん
原告の龍国安さんの本人尋問です。
龍さんへの尋問を担当したのは井堀哲弁護士です。井堀弁護士はチチハル市内の地図を示し、第一現場である団地の駐車場と龍さんが被害にあった民族車体の現場の位置関係を確認しました。龍さんはこの地域で生まれ、小さい時からこのあたりの状況にとても詳しいのです。
龍さんは1962年生まれです。小さい時、第一現場になった駐車場は軍隊の敷地になっていたと言いました。外からのぞくと土がもりあがったようなところがありました。団地の建て替えがはじまるのは2001年です。それまでは軍隊の施設でした。さらにここは旧日本軍の飛行場があったことはチチハル中の人が知っています。つまりここに旧日本軍の飛行場があり、近くには格納庫が今も残っているということは動かすことの出来ない事実です。この地点に毒ガスが埋まっている可能性は非常に高く、日本政府が97年の化学兵器禁止条約締結後、その気になって捜していればみつけることができたはずのものです。
ここから龍さんの事故前の生活の話しになりました。龍さんの答えの概略です。
私は若い時、種苗会社の運転手をやっていて月100元ほどの収入がありました。92年にトラックを買って自立しました。運送業をはじめたのです。遠くから野菜や果物を運んで地元におろしました。2000年に民族車体に移りました。この会社は貨物輸送のトラックを購入した人が登録するときの手続きをドライバーにかわって代行する会社です。この会社は父が創立した会社で、従業員は10人ほどいました。そのうち5人は親族です。
登録後も保険の手続きなどのアフターサービスをしていました。私の仕事は公安局との信頼をとりつけることが中心でした。許可後の使用料などの相談にものりました。副業として運送業も手掛けていました。ドライバーもいて、順調に進んでいました。事故前の収入は年30万元ほどになっていました。5人家族で3人の女の子と幸せな生活をしていたのです。88年に結婚し、その後離婚して、92年に再婚しました。夫婦円満で、私は仕事、妻は家で家族の世話ということで、家族旅行にもよくいきました。地元の観光スポットにもよく行きました。ハルピンの氷祭りにも行ったことがあります。事故前は人もうらやむような充実した生活を送っていました。
2003年8月4日朝、民族車体に行きました。向いの団地から土が運びだされていくのを見ました。トラックの運転手に交渉して、トラック5~6台分の土を購入しました。その土で会社の敷地を整地しようと思ったからです。その後商談をして正午ごろ戻りました。駐車場に1.5mぐらいの土山が5~6個できていました。それから午後五時ぐらいまで整地作業をしました。体に異常を感じたのは六時すぎに帰宅した後です。全身のかゆみ、のどの不調、目もかすんできました。翌日出社すると、他の人の目も赤くなっていました。8月6日午後、皮膚に異常を感じました。両足のつめの色が変って黒くなっていたのです。14~20日まで203病院に入院しました。隔離されて、どんな病気かという説明もなく、失明するのでは、という不安がずっとありました。また他の患者の絶叫も不安を増幅させました。
退院後、体調がすぐれず、もとの仕事ができなくなりました。マス・メディアの報道によって毒ガスに感染したことが知られ、まわりの人が避けるようになりました。職場に行くと、親戚や同僚もあいさつをしただけで消えてしまうのです。公安局の人たちも避けるようになりました。運送業もやめてしまいました。雇ったドライバーもやめてしまい、車も売り払いました。体の症状では、目・喉の痛みに加え、頭がボーッとして混乱し、集中して物事を考えられなくなってしまったことです。いつもイライラしています。よく風邪もひきます。
くらしぶりの変化についても大変です。お金は妻に頼るしかなくなりました。以前は親戚の人のお金の工面をしていたほどでしたが、すっかり変ってしまいました。これまで週末に親戚が遊びに来ていましたが、今は居留守を使っています。労働能力がなく、仕事ができないし、収入もありません。妻とはよくケンカをするようになりました。家族とは別々に食事をとっています。下の娘に「お父さんは毒をもっている」といわれたのがショックでした。友だちも離れ、怒りっぽくなったと思います。乱暴な言葉使いにもなり、精神病になったのでは?と思うときもあります。
さびしさをまぎらわすために半年前から犬を飼っています。毎日犬をつれて外にいきます。一日の大半をそこですごします。多くの時間、川をながめてボーッとすごします。自分のことを考えると、被害にあって、人生がダメになりました。無為の人生を送るよりも飛び込んでしまおうと思ったこともあります。三人の子どものことを考えて思いとどまりました。
裁判官にひとこと、戦争中日本軍がやったことで、毒ガスが中国に残りました。被害を与え、家族にまで苦痛を与えています。一日も早く、化学兵器を撤去して平和できれいな環境を。合わせて被害者と家族への謝罪と補償もお願いします。
尋問を終わり、龍さんは傍聴席にむかって深々と頭を下げました。満場の暖かい拍手があったのは言うまでもありません。
藤井医師の証人尋問
レントゲンX線、良くなった例は一件もない、二度のハルピン検診で
龍さんの本人尋問に先立って、医師である藤井正實先生の証人尋問がありました。尋問担当は三坂彰彦弁護士です。すでに提出された藤井医師の意見書のポイントを確認するということで尋問がはじまりした。藤井医師が答えた内容を要約して示します。
私は、芝病院の副院長として、一般内科を中心に職業呼吸器、産業中毒などを専門としています。遺棄毒ガス被害者の検診にかかわるきっかけになったのは、これまでもじん肺訴訟にかかわってきたことから、2005年8月はじめてチチハルの被害者の検診をしました。皮膚障害をもっている方たちでした。胸部レントゲンもとりました。この人たちが就労できない、というのは呼吸器疾患が原因とは考えられません。
2006年3月にハルピンに行き、レントゲン撮影、喀痰検査などをしました。42名の検診をしました。私が直接診たのは30人です。就労できないほどの人がたくさんいました。これまでも産業中毒の人を見てきましたが、化学物質過敏症と似ています。自律神経系ではないかと感じました。2008年3月に再び、ハルピンで検診しました。その時は神経内科の検査もしました。大脳の問題で高次機能障害の恐れもありました。
イペリットによって呼吸器障害がおこっていることは争いがありません。慢性気管支炎になっています。被爆後数年で「慢性」の症状で出ているのです。気管支の粘膜をただれさせています。一度おきた炎症はなかなか治りません。非可逆的で、症状は同じ状態か悪化しているのです。原告41名のデータがあります。せき・痰の状況はフレッチャーの基準で慢性気管支炎と診断できます。レントゲンX線の異常所見は21名、06年から08年にかけて良くなった例は一件もありません。当初の被爆で重篤だった人ほど喀痰検査の異常が多くなっています。呼吸器検査でも軽度の末梢気道閉塞の人もいます。毒ガスによる細い気管支の炎症がおこっています。
免疫機能の低下について述べます。抵抗力の低下については、被爆直後に日本政府が調査した報告書でもあきらかです。骨髄を抑制し、免疫細胞を減らしています。肝機能障害についても数人の方にみられました。解毒をするというのが肝臓の機能ですが、これが毒ガスによって侵されているのです。
国側の反対尋問
というところで、国側の反対尋問にうつりました。国側の代理人は、被害者の症状が毒ガス被害との因果関係が証明できるのか、という視点にたって、ネチネチと藤井先生に尋問していましたが、藤井先生は、自分でおこなった検診と医師の識見をもって断固として国側代理人の尋問に答えていました。国側の意図は藤井先生には通じませんでした。