第13回口頭弁論(2009/11/19)
3人の本人尋問、幸せな人生と家族の団欒を返して
駐車場の工事現場の土の中に毒ガスのドラム缶があった・・李双義さん
最初の尋問は李双義さんです。尋問を担当したのは山下弁護士です。李さんの答えた要旨です。
私は1969年8月4日、5人兄弟の4番目として生まれました。ちょうど誕生日である2003年8月4日朝7時から第一現場である地下駐車場の工事現場で作業を始めました。畢海岩さんから作業を引き継ぎました。地下駐車場予定地の掘削作業です。その作業は半分ほどすすんでいました。地下3mほどのところに5本のドラム缶が埋まっていたと畢さんから聞きました。そのドラム缶は予定地の北西角に置いてありました。掘削したところの土が一部黒ずんでいました。作業を続けるうちにカラシの匂いが強くなりました。タオルを顔にまいて作業を続けました。そのタオルは畢さんが身体をぬぐったものでした。
ユンボの運転手は14年やっていました。1989年21歳で特殊免許をとりました。その時働いていた会社の社長が私の仕事ぶりをみて黒竜江省労働局に便宜をはかって申請してくれたものです。3年間レンガの精製工場で働きました。1992年義理の兄の会社、1994年新栄有限公司に移りました。年収は4万元ほどありました。ユンボの運転手は体力が必要です。小学校の時からバスケットの選手をやっていました。1988年には軍隊にはいっています。1993年に結婚、その年に男の子が産まれました。子どもが産まれて父親としての責任を感じるようになりました。
その子どもは今ハルピンのコンピューターの専門学校に行っています。学費は年15,000元かかりますが、友人から借金しました。事故に遭わなければ成績もよかったし、大学に行かせたいと思っていました。息子が言うには「高校・大学のコースは時間もかかるし、お金もかかる。家にはお金がない。一日も早く技術を身につけ、稼ぎたい」というのです。妻の態度も事故後変わりました。ぐちやうらみごとを言うようになりました。今はよくしてくれていますが・・・。今は妻の収入だけでくらしています。月収は1500~1700元ほどです。治療費が月に3000元ほどかかりますが、借金で工面しています。
今、股関節が壊死し、半月板の損傷、骨沮喪症といわれています。座っている時間が長いと腰が痛くなります。しゃがむことができず様式トイレでないとできません。落ちているものを拾うのも痛いです。医者からは若いのに60歳ぐらいの骨だといわれました。仕事をしたくても体力がついていかずできません。病院に入院している時、王成さんと亡くなった李貴珍さんと同室でした。目に包帯をされていて見えませんでしたが、声は聞こえました。痛くて叫んでいる声が聞こえ、とても怖かったです。目の包帯は10日ほどでとれました。今も目の前に霞みがかかっているように感じます。事故後、毒ガス被害は感染すると言われ、友だちが離れていき、とても寂しく孤独感を感じました。妻は事故に憤りを感じています。夫が仕事ができず、幸せな家庭をこわしてしまった、と言っています。私は障害者になり、治療に専念しています。妻はいたわって面倒をみてくれています。感謝しています。
日本政府に強く求めます。一刻も早く毒ガスを処理し、同胞が二度と被害にあわないようにしてほしい。
毒ガスで汚染された土を知らずに土嚢につめていた・・・施青さん
昼食をはさんで午後の尋問は施青さんからです。尋問担当は南弁護士です。施青さんの答えた要旨です。
私は1951年生まれです。チチハル北方の農村で生まれました。経済的に苦労し、食べるものも事欠く状態でした。1972年結婚し、22歳の時に長女、28歳の時に長男が生まれ、とても幸せでした。農業をしていましたが、39歳の時に小さな雑貨店を開き、廃品回収業も始めました。農業だけでは豊かな生活ができないと思ったからです。子どもたちと年老いた親のためでした。2000年からチチハル市内に出稼ぎに行くようになりました。息子が結婚し、二世帯住宅を建てるために借金をしたからです。借金は7000元です。出稼ぎは工事現場でセメントを運ぶ仕事です。ふだんは工事現場で50kgほどのセメントの袋をミキサー機まで運び、流し込む仕事をしています。一日にこの袋を200~300ぐらい運びました。朝の4時から夕方の6時まで仕事をし、残業もありました。
事故の日、昼間(朝4時から夕方6時まで)は5階建ての建物工事のコンクリート運びの6番現場で作業をしました。事故があった2番現場の地下駐車場工事の現場では夜の8時から真夜中の0時まで働きました。掘った土がまわりに積み上げられていましたが、それが中に流れ込まないように土嚢を積み上げる仕事でした。土を袋に詰めていきます。シャベルで土を救う人がいて、袋を口をあけ、その土を詰め、運ぶ人の背中に渡していました。シャベルで掬った土が私の身体にたくさんつきました。5日になって、左足のすね、右足、陰嚢に水泡ができました。食あたりかな、と思っていましたが、リーダーの陸さんから病院に行くように言われました。203病院に103日入院しました。病室には解放軍が見張りにたっていて、恐怖を感じました。いつも被害者の声が聞こえていました。うめき声で声がでなくなった人もいました。妻につきそいを頼みましたが「うつるから・・」と言われて断られてしまいました。
退院して村に戻った時は、収穫した大豆を脱穀する時期でした。手伝おうとしましたが、力が出ないのです。両手に力がはいりません。2~3回やりましたが、そのあとできなくなりました。簡単な作業もできなくなったのでとてもつらいです。日本のことをうらみました。日本軍が毒ガス兵器を残さなければこんな自分にはならなかった、と思いました。息子が「お父さん、本当に仕事ができないの?なまけているのではないか」と言いました。力がでない、足もむくんでいる、仕事ができないのです。息子を叱ったので、それからは言いません。今は朝起きて、孫娘を幼稚園に送り、テレビなどをみて、昼にまた孫を幼稚園に迎えに行くという日々です。
今の症状です。のどにはいつも異物がつまっているように感じています。息が苦しくなることもあります。胸も痛くて苦しいです。足のすね、陰嚢はいつもかゆい状態が続いています。薬を常用しています。目もかすんでいます。光を見ると目が痛くなります。事故後、風邪を引きやすくなりました。月に2~3回ひくという状態です。身体もむくんできて、水を控えています。1日に20回もトイレにいきます。前にはなかったことですが、下痢が続き、汗もでるようになりました。感情の動揺があり、記憶力も低下したと感じています。性生活もできなくなりました。
娘夫婦にいわれ、娘のいる除州に移りました。娘は花屋をやっていますが、花に水をやる程度の手伝いしかできません。デッキチェアに横になっているだけです。泥のようになって力がでません。テレビをみているだけです。働いている人を見ると自分は何もできず、イライラします。自殺しようとしてはさみを隠していました。夫婦ゲンカの時自分で刺して死のうと思っていました。娘の夫の親が発見し、とりあげ説得してくれました。これから生きていくことを思うととてもつらいです。妻も糖尿病を患っています。息子のところも経済的に困難です。病院に行くと入院しなさい、と言われますが、入院費が高くて入院できません。薬でなんとかしています。一番つらいことは仕事ができないことです。
日本政府には、被害をおこした兵器を取り除いてほしい、私の身体と心の痛みは化学兵器のせいでおこっています、家族の団欒も幸せも取り戻して欲しい、私のような被害者を出さないようにしてほしい、と言いたいです。裁判所は一日も早く被害者のために正しい判決をだしてほしいです。
毒ガスのドラム缶が転がされたところに座っていた・・・王立冬さん
最後は王立冬さん(尋問当日、具合が悪くなり病院で診察を受けてから裁判所に到着)(尋問担当の穂積弁護士から)コーディネートしている人が今朝迎えに行くと、ふとんをかぶって寒い寒いと言っていたそうです。来日した3日前はそうではありませんでした。
~~ここから本人~~
2日前から下痢、頭痛が続き、力がはいらず、めまいもあり、暑くないのにあせをかきます。病院で解熱剤・頭痛薬・はきけ止め・整腸剤をもらってきました。
月に2~3回風邪をひきます。一回症状がでると回復するのに7~8日かかります。月の半分以上は体調が悪いのです。被害前はこんなことはありませんでした。(今日の治療費は診察に6636円、薬に1953円、計8589円かかりました。弁護士から)中国では看護士に家にきてもらい点滴を打ってもらい、200~300元かかります。
2002年にチチハルに引っ越しましたが、それまではチチハルから100キロほど離れた克山県に住んでいました。そこはたいへんな田舎です。両親と妻と4人ぐらしでした。母は呼吸器の重い病気にかかっていました。三輪タクシーの運転手をやっていました。最高で月に2000元の収入がありました。競争が激しくなって月に1000元稼ぐのがやっとになりました。より良い生活をしようとチチハルに移りました。両親は田舎に残しました。チチハルでの仕事は鉄くずの回収です。仕事は順調でした。荷台付き三輪車で回収所を回って鉄くずを回収するのです。一日に500kgの鉄くずを運びました。一回では50kgもの鉄くずを持ち上げて荷台に積み込みます。30~40の回収所と取引がありました。時には廃品回収所の仕事も手伝い、信用を広げました。月に3000元ほどの収入があり、親に月300~500元を仕送りしていました。将来はチチハルに家を購入し、親を呼ぼうとしていました。母も喜んでいました。あと2~3年で実現できると思っていました。
2003年8月4日、朝4時から回収所を回っていました。午後1時頃、牛海英さんの回収所に着きました。強いカラシの匂いがしていました。鉄くずの量が少なかったので、着いてから座って本を読んで待っていました。2~3時間して鉄くずを回収して次に向かいました。夜家に帰ってからおしりに水泡ができました。妻と義父がみてくれました。マッチ棒の頭ぐらいの水泡だと言っていました。入院した後に牛さんから「毒ガス缶が転がされた所に座っていた」と聞きました。8月6日に203病院に入院しました。ピンセットで水泡をつまみ、腐った肉を手術用のナイフで削るのです。これを麻酔なしでやられました。
退院後、仕事を再開しようとしましたが、三輪車に乗れないのです。力がはいらず、汗もでます。得意先を回ると「もう来ないでくれ。アレがうつる」と言われました。うつらない、と言ってもダメでした。警備員の仕事に応募しましたが、「なぜ若いのにこんな仕事をしようとするのか」と聞かれ、正直に言うと採用してくれませんでした。それから田舎に帰りました。田舎に戻った時、母が泣きました。「息子の一生は台無しになってしまったのか」父も隣で涙を流しました。
現在の症状です。水疱のあとは黒っぽくなって痛みがあり、いつもかゆいです。長く座ることが出来ません。自転車にも乗れません。重い荷物も持てません。米袋やガスボンベも持ち上げられません。夜になると咳がでます。記憶力の低下も感じています。買い物を頼まれても種類が多いと覚えられないのです。以前はなかったことです。
生活はとても苦しく親の年金が月に600元あるだけです。食生活をきりつめ、節約をしています。肉や魚なしで野菜ばかりです。いつもの楽しい笑い声がなくなりました。妻からは「廃物」(中国語で役にたたないものという意味)と言われました。家の重荷は妻が背負っています。今年10月に女の子が生まれました。この子には早く大きくなって母の背負っている重荷を担ってほしいと願っています。医者になって患者の苦しみを解消してもらいたいというのが希望です。
(弁護士から本日本兵が日本政府にあてた報告書を見せられて)チチハルに出て来なければと自分を責めていましたが、もし日本政府が責任をもって処理していれば被害はおこりませんでした。日本軍が残した毒ガスを徹底的に撤去して、二度と事故がおこらないようにしてほしいです。私の人生、家族の人生を狂わせたので、医療と生活を保障してください。