第14回口頭弁論(2009/12/22)
チチハル裁判が事実上の結審(2009年12月22日)
原告・丁樹文さんが最終意見陳述
弁護団も渾身の思いで国にせまる
被害者は私たちを最後にしてほしい、精神的・肉体的苦痛を味わうことがないようにに・・・丁樹文さん意見陳述
私は1979年にチチハルから190キロ離れた農村で生まれました。妻と娘がいます。事故前にはたくさんの夢がありました。中学にも進学しなかったため、子どもには良い学校にいれたい、自分の家も持ちたい、親孝行もしたい、などというものでした。生活を切り詰め、2年間で3万元を貯金しました。
事故のことを話したいと思います。第一現場となった工事現場で働いていた畢海岩さんから5つのドラム缶が出た、売り物になるからという電話があり、取りにいきました。以前にも畢さんからはくず鉄を買ったことがあるので、この時も三輪車で取りにいきました。5つのドラム缶のうち、ひとつは腐食していて、ひとつはこわれて液体がもれていました。毒ガスとはまったく思いもしませんでした。同僚の高権さんと一緒にドラム缶を手でかかえて運びました。マスタードの臭いがしましたが、廃棄油かと思っていました。そこへ今回の事件で亡くなった李貴珍さんと出くわして、李さんに200元でこのドラム缶を売りました。李さんの三輪車にドラム缶を移しました。その時ドラム缶を手で触りました。李さんは毒ガスをさわった手でお札を数え、私に渡しました。私のお札も湿ってしまいました。
3ケ月入院し、退院してみると、我が子はハイハイができるようになっていました。子どももの成長が唯一の救いでした。妻や子に精神的・経済的負担をかけたことにとても苦しみました。治療もとてもつらいものでした。ますいもかけずに皮膚の水疱をつぶす治療は死んだ方がまし、と思うほどでした。退院後も早く仕事につきたいと就職活動をしました。建築会社、ダンボールの会社などで働こうとしましたが、できませんでした。以前より注意力が散漫になり、記憶力も衰え、体力もなくなっていました。以前軽く持ち上げられたものも持ち上げられなくなってしまいました。光の刺激に過敏になり、傷口も痛むなど仕事になりませんでした。仕事ができないとわかった時のつらさはなんともいえません。自分は役に立たない人間になったのか、と思ったり、家族の期待にも応えられない、というのはとてもつらいことでした。近所の友人・知人は「ブラブラしていてなまけている」とかげで言っていました。見た目の体はガッチリしていて、周囲の人に理解してもらえず、これもつらかったです。事故前の近所つきあいは、家の修理、調味料の貸し借り、食事の招待などをしていましたが、事故後は、みんな離れていきました。公衆浴場に行くと、私の体をみて離れていきます。結婚式に近所皆呼ばれているのに、私の家族だけよばれない、ということもありました。近所の親たちはうちの娘と遊ばせないようにしていました。私の方から、迷惑をかけたくないと考えて、人を避けるようになりました。友だちも少なくなり、ひっこしせざるを得ませんでした。気分的には楽になりましたが、毒ガス被害者と知られるかもしれないという恐怖感はいつもあります。毒ガス被害者ということは隠し通すつもりです。
被害者を代表して述べたいと思います。すべての被害者はそれぞれかけがいのないものを失いました。健康な体、仕事を失い、新しい仕事も見つからない、家族・親戚・助け合ってきた友人、将来の夢、生きる希望も失ってしまいました。皆将来に対しての不安を抱えています。治らない病気をかかえ、どこまで生きていけるのかわかりません。戦後何十年もたつのに、何の罪もない私たちが、なぜこんな被害をうけなければならないのでしょうか。加害者である日本政府は、原因究明もせず、被害者の前で説明もしていません。日本政府からの謝罪も受けていません、謝罪した上で、それにふさわしい弁償をしてほしいと思います。生涯にわたる医療支援、生活支援をしてください。裁判所は正義の判決を信じています。
日本政府は、精神的・肉体的苦痛を同胞が味わうことがないように、中国国内の膨大な化学兵器を処理してほしいです。
被害者は私たちを最後にしてほしい。
弁護士の最終意見陳述
<事実論>
井堀哲弁護士から、事実論についての意見陳述がなされました。本件はチチハルのマンション工事現場から5つのドラム缶が発見され、44名の被害がでて、そのうちの1名が亡くなったという事件です。戦後60年近くたって、ロシア国境近くでおこったものです。被告・国が認めたのは、独ガスは旧日本軍が製造したもの、というだけです。チチハルがどういうところで、なぜ5つのドラム缶がなのか、なぜ放置されたのか、ということについて何も言っていません。この毒ガスは戦争がおわる前後に組織的に隠蔽されたのではないか、ということについても国は何も言っていません。
原告・弁護団・市民の努力でさまざまな事実が判明しています。現場となった場所は東西に民航路、南北につうこう街が走る交差する地点の敷地の西北隅にあります。
ここには戦前、長さ1500m、幅100mのチチハル飛行場がありました。1931年9月に満州事変がはじまり、その年の10月には関東軍がチチハルを占領しています。満州航空株式会社をつくり、チチハル飛行場を建設し、格納庫、兵器処理施設、弾薬庫などを建設していました。2001年10月の時点まで弾薬庫の建物が存在していたことが確認されています。戦争当時、チチハルは対ソ戦略の拠点でした。516部隊という毒ガス部隊、526部隊という訓練隊もチチハルにおかれました。いくつかの毒ガス関連部隊が存在していたのです。ここでは毒ガスの貯蔵、実権演習もおこなわれていました。静岡の浜松飛行場で訓練したものを中心にチチハルでも演習がおこなわれていました。大量の毒ガスが常備されていました。弾薬庫の管理も厳重で、日本の敗戦時にそのまま遺棄されたのです。第三者にひきわたされた形跡はまったくありません。
被告・国はこれらの情報をきちんと収集したかどうかということです。復員局では1950年に調査をしています。部隊ごとの資料を作成し、1954年までに44,934名の聞き取りをしています。第六野戦兵器処では、弾薬を処理したが、武装解除まで間に合わなかった、という記録が残っています。昭和48年に旧軍毒ガス弾全国調査が国内についておこなわれ、敗戦直後に軍命で毒ガスを遺棄した証言がでてきました。このあと国内の調査で被害防止の処置がはかられました。これは国内だけで、国外の調査は実施していません。1999年に日中覚え書きができ、日本政府に廃棄義務が生じたのちも調査をしていません。こんなことが許されるでしょうか。
<国の責任について>
富永由紀子弁護士からは、国の責任についての意見が陳述されました。
この事件は覚え書き後4年でおこった事故です。まず予見可能性についてです。旧日本軍がこの飛行場周辺に配備・遺棄したのははっきりしています。チチハルのことは熟知していたというべきです。戦中、チチハルで大規模な演習がおこなわれていたというのは当時の資料に明記されています。1972年時点でも国内の大久野島で事故がおこり、調査をし、三方原でも調査をしたのに、国外の調査をしませんでした。調査義務を怠ったのです。 次は、結果回避義務についてです。被告・国は予見できたはずです。このチチハルの毒ガス弾が付近の住民に被害をもたらすことは予見できました。チチハルで調査し、毒ガス弾を回収し、無害化することをしなかったのです。97年に化学兵器禁止条約が発効し、99年には、日中の覚え書きもできています。中国国内での事故を防止することはできたはずです。国の責任はあきらかです。
<損害論>
佐藤香代弁護士は、毒ガスが人体に及ぼす影響、社会的な被害について述べました。
これまでの法廷で8人の原告、2名が映像で意見陳述をしたり、尋問に答えたりしました。この身体的状況と毒ガスとの関連は医師の証言もありました。この中で、これまで呼吸器障害、皮膚疾患が中心だった毒ガス被害の症状がそればかりではなく、その他の内科疾患、神経障害にも及んでいることが明らかになりました。視力の低下、目が痛い、頭が痛い、疲れやすい、頻尿、記憶力の低下、勉強ができない、血糖値の異常などの所見が原告の症状からはっきりしました。検診の結果、藤井医師の所見では呼吸器症状では43人中、21人に異常がありました。これはかったん培養検査でわかりました。しかも状況は深刻化していて、予想以上に悪くなっています。発ガン性の危険も指摘され、今後の悪化を防ぐための治療はかかせません。
神経内科の橘田医師の所見では、自律神経の障害がみられ、力がでない、ひんぱんにトイレにいく、などが就労不能の原因になっていると指摘しています。体温、血圧の異常もあり、CVRR検査では、高次脳機能障害もみられると言います。記憶力の低下や目の異常もありました。干さんは事故前には刺繍が得意でしたが、目の見え方の異常で、刺繍をするどころか寝たきりになってしまっています。このような重篤な状態になっている原告らに対して適切な医療体制が必要です。
学校生活や家庭生活も深刻です。陳紫微さんは事故当時10歳でしたが、毎日楽しく学校も家でも生活していましたが、事故後、父と母の関係悪化に悩んでいます。楊樹茂さんは子どもの進学を断念しています。劉国安さんは食卓も別で、一日リビングで過ごし、心が病んでしまったと思っています。
国は、客観的な立証がない、と主張しますが、原告の現実を目の当たりにして、そんなことが言えるでしょうか。平和な時代に生きているのに、毒ガス被害者というレッテルをはられてしまって人生を狂わされたのです。この風評から逃れるために名前まで変えた馮嘉燕さんは「人間の命をもてあそぶな」とこの法廷で述べました。
<相互保証論について>
山下基之弁護士は、国側の主張する「相互保証論」に反論をくわえました。
国側は、中国の国家賠償法には、精神被害についての取り決めがない、上限も決まっているなどと主張しています。日本の国家賠償法の第6条は、この規定が書かれていますが、そもそもこの法は憲法違反の疑いがあります。憲法第17条は「なにびとも・・・」と国籍を問わず、だれにでも国家賠償を請求する権利があることを書いています。原告は日本の国家の行為によって、中国で被害にあいました。現在の人権保障の考え方をすれば、国の主張は失当です。中国でも、現在精神的損害についての国家賠償を検討していて、明文化の動きもあります。実務的には、これも認められています。国際社会での位置を考えるべきです。
<総括>
最後に、小野寺利孝弁護士から、裁判所にむけて、総括的な意見が述べられました。
平和な時代におこった事故で被害にあった原告は、真相を知りたい、と訴えました。しかし、政治決着がはかられ、日本政府は今日まで被害者に謝罪していません。原告らは提訴する以外に道はなかったのです。弁護団は被害のすさまじさを前にこの原告の要求に応えようと調査を重ね、事実を明らかにする活動を続けてきました。しかし、被告・国の態度は遺憾の極みでした。
原告の被害事実の認識は訴状段階と比べても飛躍的に進化しています。被害事実が正確に判決に反映されることを強く望みます。その判決が日中両政府の認識を変える力になるはずだと信じます。
今、原告らの一生を狂わせた加害について、一体誰が法的責任を負うべきか、ということです。裁判官はこの問いかけに答えてほしいと思います。生涯にわたる充実した医療支援と人間の尊厳を保持するに足る生活支援が不可欠であることは誰の目にもあきらかです。判決で勝利するだけでは不十分で、現在の民主党・社民党・国民新党の連立政権は、判決を真摯にうけとめ、新支援策を創設するという政治判断があるという強い期待を抱いています。これは近時のハンセン氏病訴訟、中国「残留孤児」訴訟、トンネルじん肺根絶訴訟、C型肝炎訴訟、原爆訴訟といった制作形成型訴訟は判決を契機に国の政策の抜本的転換をもたらしました。私たちの期待は輝かしい成果をもたらした司法への信頼に基づきます。どうか、原告らの生きる唯一の希望の光を来春しっかり輝かせてください。