05  毒ガス兵器の歴史  

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毒ガスは、第1次世界大戦中の1915年4月22日、西部戦線のイープル(ベルギー)で、ドイツ軍によって初めて使用されました。「イープルの暗黒日」といいます。

このときに使用されたのは塩素ガスで、この戦いでフランス軍は中毒者1万5千人、そのうち死者は5千人にも達しました。

1899年7月29日に開かれた第1回ハーグ条約で、「窒息性ガスまたは有毒質のガスを散布するのを唯一の目的とする投射物の使用を禁ずる」と、毒ガス兵器の使用禁止が定められていました。

ドイツはこの条約を無視して毒ガスを使用したため、世界中から非難されましたが、その後報復のためにイギリス、フランスも毒ガスを使うことになり、大規模な毒ガス戦争が展開されることになってしまいました。

日本では、1918年、陸軍省に臨時毒ガス調査委員会が設けられ、毒ガス研究が開始されました。

1921年から1924年まで、久村砲兵中佐らが、ドイツ、フランス、アメリカの毒ガス状況を視察し、本格的な毒ガス研究が始まりました。

1922年、戸山ヶ原科学研究所研究室で、化学兵器の研究が再開されました。

1925年、陸軍科学研究所に、化学兵器の研究に専任する第三部が創設されました。フランス式製法により、月100トンのイペリットを生産開始。九州、北海道、千葉、富士裾野、大阪などで野外試験が行われました。その後、ドイツからワイルターメッツナー博士を招聘し、二年間にわたり技術指導を受けました。これにより、日本の化学兵器はドイツ式が主流となりました。

1928年、広島県に「陸軍造兵廠忠海兵器製造所」が創設されました。

ここで製造された毒ガスの種類は、

イペリット(びらん性)-(黄)
ルイサイト(びらん性)-(黄)
青酸(窒息性)-(茶)
ジフェニール・シアンアルシン(くしゃみ性)-(赤)
塩化アセトフェトン(催涙性)-(緑)
ホスゲン(窒息性)-(青)

それぞれ黄、茶、赤、緑、青と呼ばれ、砲弾にもそれらの色の帯が付けられて区別されていました。

1930年、台湾の先住民蜂起「霧社事件」で、日本軍が初めて毒ガスを使用しました。

1933年、「陸軍習志野学校」を創設し、毒ガス戦の将兵を養成しました。

1937年、福岡県に「曽根兵器製造所」が開設され、砲弾への充填作業が行われました。その殆どが中国大陸に送られました。全生産数は毒ガス768万発以上です。

1938年、催涙性毒ガスの使用を許可する指示が参謀総長から出され、翌年には致死性の毒ガスの使用命令も出され、本格的な毒ガス戦が中国各地で展開されました。

1939年、化学兵器班、毒ガス兵器の試験を目的とする関東軍化学部(満州516部隊)が独立編成されました。これにより「731部隊」との合同による人体実験など、毒ガス兵器の実験が盛んに行われました。

同じく1939年、ドイツが神経性ガス「サリン」を開発しました。

1941年、太平洋戦争が開始し、大久野島での毒ガス生産は頂点に達しました。

1943年、日本海軍は、「相模海軍工廠」が開設されました。大久野島に、学徒動員が始まりました。

1944年、毒ガス製造は中止され、大本営が毒ガス使用禁止を発令しました。

1945年、敗戦を迎え、中国各地に日本軍の毒ガスを大量に遺棄しました。大久野島の毒ガスは、アメリカ軍によって海洋投棄されました。

1946年、極東軍事裁判で、日本軍の細菌戦、毒ガス戦は取りあげられませんでした。一方、中国国内で廃棄毒ガスの犠牲者が多く出て、問題になりました。しかし中国の国共内戦のため、問題を処理する力がありませんでした。

1950年、アメリカ軍は、朝鮮戦争で毒ガス使用を検討しました。

1953年、中国政府が、「敦化県日軍廃棄毒弾処理委員会」を発足させました。

1954年、中国吉林省敦化で、旧日本軍の毒ガス180万発の埋設を開始しました。当時は大量の毒ガスを無毒化する方法が無かったので、敦化で地中深くに埋めておくだけとなりました。

1969年、沖縄のアメリカ軍基地から、神経ガス、サリンが漏出しました。

1972年、山口県宇部市沖の海底で、大量のイペリット弾が発見されました。

1973年、環境庁が全国の毒ガス廃棄状況を調査し、埋設18ヶ所、海洋投棄8ヶ所が判明しました。

1974年、中国黒龍江省で浚渫船毒ガス弾を引き揚げ、35人が被害を受けました。

1981年、イラン・イラク戦争でイラクが、イペリット毒ガスを使用しました。

1982年、中国黒龍江省牡丹江市で、毒ガス被害者が5人出ました。

1990年、中国政府は、日本政府に対して遺棄毒ガスの廃棄処理を要求しました。

1991年、日本政府は、中国遺棄毒ガスの調査団を派遣しました。

1993年、「化学兵器禁止条約」締結に130カ国が調印しました。

1995年、日本は「化学兵器禁止条約」を批准しました。同じ年、日本政府調査団は、旧日本軍の中国遺棄毒ガス弾を確認しました。

1997年、「化学兵器禁止条約」が、164カ国の調印、81カ国の批准を得て発効しました。

1999年、化学兵器禁止条約に基づき、「日中覚書」を交わし、これにより、日本政府は、中国国内の化学兵器を一定の期間内に廃棄する具体的義務を負いました。

2003年、チチハル毒ガス事件が起き、44名という多数の死傷者を出しました。

2004年、敦化毒ガス事件が起き、少年2人が被毒、負傷しました。