02  被害者の声

■施青さん (2003年の事故当時52才)

自殺しようとして準備もしました。  

 私は1951年生まれです。チチハル北方の農村で生まれました。経済的に苦労し、食べるものも事欠く状態でした。

 1972年に結婚し、22歳の時に長女、28歳の時に長男が産まれ、とても幸せでした。農業をしていましたが、39歳の時に小さな雑貨店を開き、廃品回収業も始めました。農業だけでは豊かな生活が出来ないと思ったからです。子供たちと年老いた親のためでした。

 2000年からチチハル市内に出稼ぎに行くようになりました。息子が結婚し、二世帯住宅を建てる借金をしたからです。借金は7000元です。出稼ぎは工事現場でセメントを運ぶ仕事です。普段は工事現場で50kgほどのセメントの袋をミキサー機まで運び、流し込む仕事をしています。一日にこの袋を200~300ぐらい運びました。朝の4時から夕方の6時まで仕事をし、残業もありました。

 事故の日、昼間(朝4時から夕方6時まで)は5階建ての建物工事のコンクリート運びの6番現場で作業をしました。事故があった2番現場の地下駐車場工事の現場では夜の8時から真夜中の0時まで働きました。掘った土が周りに積み上げられていましたが、それが中に流れ込まないように土のうを積み上げる仕事でした。

 土を袋に詰めていって、シャベルで土をすくう人がいて、袋の口を開け、その土を詰め、運ぶ人の背中に渡していました。シャベルですくった土が私の体にたくさん付きました。

 翌々日の5日になって、左足のすね、右足、陰のうに水泡が出来ました。食あたりかな、と思っていましたが、リーダーの陸さんから病院に行くように言われました。203病院に103日間、入院しました。

 病室には解放軍が見張りに立っていて、恐怖を感じました。出て行かないようにということで、着物も燃やされてしまいました。いつも被害者のうめき声、叫び声がひびいていました。うめき声で声が出なくなった人もいました。薬を取り替えるときが特に辛いので叫び声が出るのです。ここから出られない、自分の家族にも会えないということがとても絶望感でした。

 妻に付き添いを頼みましたが「うつるから・・・」といわれて、断られてしまいました。かたくなに、泊まっての看護を断られました。妻が帰るときに、途中まで見送ったのですが、悲しくて耐えられず、涙も流しました。

 退院して村に戻ったときは、収穫した大豆を脱穀する時期でした。手伝おうとしましたが、力が出ないのです。両手に力が入りません。2~3回やりましたが、その後できなくなりました。簡単な作業も出来なくなったのでとても辛いです。日本のことを恨みました。日本軍が毒ガス兵器を残さなければ、こんな自分にはならなかった、と思いました。

 息子が、「お父さん、本当に仕事ができないの?怠けているのではないか」と、妻にいいました。私は昔は、よその家の仕事まで手伝っていたほどの働き者でした。今、自分の家のための作業さえもできない、本当に冷や汗をかいてできないのだ、と怒りました。息子は、まあまあ、怒らないでといいました。

 その後は、朝起きて、孫娘を幼稚園に送っていったあと、テレビなどを見て、昼にまた孫を幼稚園に迎えに行くという日々でした。

 娘夫婦から、一緒に住もうとすすめられて、チチハルを離れ、徐州に移りました。しかし、体調はまったくよくなりません。喉にはいつも異物が詰まっているように感じ、息が苦しくなることもあります。胸が痛くて苦しいです。足のすね、陰のうはいつもかゆい状態が続いています。薬を常用しています。

 目もかすんでいます。光を見ると目が痛くなります。事故後、風邪を引きやすくなりました。月に2~3回ひくという状態です。一旦風邪を引くと1週間くらいは治りませんので、結局いつも風邪をひいているのと同じような感じです。

 体もむくんできて、水を控えています。1日に20回もトイレに行きます。前にはなかったことですが、下痢が続き、汗も出るようになりました。感情の動揺があり、記憶力も低下したと感じています。性生活もできなくなりました。

 徐州に移った後、娘は花屋をしていますが、花に水をやる程度の手伝いしか出来ません。デッキチェアに横になっているだけです。泥のようになって力が出ません。テレビを見ているだけです。働いている人を見ると自分は何もできず、イライラします。妻にも文句を言われて辛かったのですが、自分が好きでこうなったのではなく、どうにも出来ません。

 自殺を企てたこともありました。自殺用のはさみを隠していました。夫婦喧嘩のとき自分で刺して死のうと思っていました。娘の夫の親が発見し、取り上げ説得してくれました。

 これから生きていくことを思うととても辛いです。妻も糖尿病を患っています。息子のところも経済的に困難です。病院に行くと、入院しなさい、といわれますが、入院費が高くて入院できません。薬で何とかしています。一番辛いことは仕事ができないことです。

 日本政府には、被害を起こした兵器を取り除いてほしい。私の体と心の痛みは化学兵器のせいで起こっています。家族の団欒も幸せも取り戻してほしい、私のような被害者を出さないようにしてほしいです。裁判所は一日も早く被害者のために正しい判決を出してほしいです。

■楊樹茂さん (2003年の事故当時39才)

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苦労して築いた、自分の会社と仕事を失いました。

 私は、青少年時代に非常に貧乏で苦労し、やっと自分の会社を立ちあげ、人の二倍も三倍も努力して、同業他社に負けない信用を勝ち取って営業していました。工事現場から出てきた土を買取り、自分の家の庭に使用したところ、毒ガス被害に遭いました。

 病院で辛い治療をした後退院して、具合は悪かったのですが、生活もあるので、少しでも動けるなら、何かしなければと思って、自分の会社の仕事を再開しました。

 ヒマワリの種(食用)を炒る仕事ですが、これは火加減がとても大切で、ずっと注意深く見ている必要があります。火力が足りないと送風機を動かしたり、火を足したりするのです。1回で作れるヒマワリの種の量は、約30キロです。

 毒ガス事故に遭う前は、 30キロを約30分で作れていました。しかし、事故後は同じ仕事をしても全く違いました。頭痛と汗、いらだち、下痢で、全く力が入らないのです。30キロ作るのに40分ほどかかりました。全身がだるく、力が出ませんでした。動きが遅く、火加減を調節するのも遅くなってしまいました。集中しての火力調節ということが全くできませんでした。

 結局、200キロ作るのに1日かかりました。事故前なら、毎日400キロは作っていました。朝6時に始めて、午後の1時か2時までです。

 そして翌日、そんなにして作ったヒマワリの種を持って、妻と一緒に取引先を回りましたが、誰も声もかけてくれず、もちろん商品も買ってくれませんでした。取引先は、30軒〜40軒くらい回りました。スーパー、商店、露天商も。朝7時〜午後3時まで、回ったけれども全く買ってもらえませんでした。

 辛く哀しく、泣きたい気持ちでした。妻ももちろん辛くて、悲しみました。体調といえば、全く耐えられないほどでした。家に帰ったらベッドに横になり、起き上がれませんでした。こんなわけで、せっかく無理して作った200キロのヒマワリの種も廃棄し、今までの仕事は続けられなくなりました。何か仕事を探さなければならない・・・と考えて、どこかの工場の門番の仕事を探しました。今までのような、たえず集中して何かをしなければならないような仕事はできないと思われたからです。

 しかし、どこへ行っても雇ってくれませんでした。健康な人さえ、労働力が余っている時代です。毒ガス被害者と聞いて雇ってくれるところは全くありませんでした。

 以前はバスケットボールをしていたのですが、もうできません。もしやったとしたら、汗、頭痛、下痢で背中も痛くなって、到底できないでしょう。

 物忘れもひどくなりました。子供に何かやってくれといわれても、すぐやらないとすぐ忘れてしまいます。 そうすると子供の機嫌も悪くなります。長男の経営している食堂を手伝って、注文を取ったこともありますが、すぐに忘れるのでやらせてもらえなくなりました。

 今の家族は、妻と、自分の両親と、次男と長女の6人家族です。その6人家族の生活費を、以前の収入では問題なく出せていましたし、ゆとり、貯金もありました。

 しかし、今、借金がかさみ、だいたい20万元ほどになってしまいました。 生きるために借金をせざるを得ませんが、とても耐えられないほどです。やりきれなくて、悲しいです。事故前は、親戚や友達に、むしろ頼られる側だったのに・・・。借りたお金も全く返済のめどが立ちません。薬も買えず、最低限の痛み止めくらいです。

 年取った父は、以前は隠居生活で村の年寄りと一緒に楽しく過ごしていましたが、私の事故後、ゴミ拾いの仕事を始めました。2ヶ月前に足が動かなくなってやめました。(ここで、泣き出してしまわれました)

 私を含む被害者達への、生活・医療の保障を望みます。そして、二度とこのような被害が出ないようにしてください。私の願いです。

■李双義さん (2003年の事故当時34才)

私の誕生日に、この悲惨な被害に遭ったのです。

 私は1969年8月4日、5人兄弟の4番目として生まれました。ちょうど誕生日である2003年8月4日、朝7時から、第一現場である地下駐車場の工事現場で作業を始めました。畢海岩さんから作業を引き継ぎました。地下駐車場の掘削作業です。その作業は半分ほど進んでいました。

 地下3メートルほどのところに5本のドラム缶が埋まっていたと畢さんから聞きました。そのドラム缶は予定地の北西角に置いてありました。掘削したところの土が一部黒ずんでいました。

 作業を続けるうちにカラシの臭いが強くなりました。タオルを顔に巻いて作業を続けました。そのタオルは畢さんが体をぬぐったものでした。

 ユンボの運転手は14年やっていました。1989年21歳で特殊免許を取りました。その時働いていた会社の社長が、私の仕事ぶりを見て黒龍江省労働局に便宜を図って申請してくれたものです。3年間、レンガの生成工場で働きました。1992年、義理の兄の会社、1994年新栄有限公司に移りました。年収は4万元ほどありました。

 ユンボの運転手は体力が必要です。小学校の時からバスケットの選手をやっていました。1988年には軍隊に入っています。1993年に結婚、その年に男の子が産まれました。子供が生まれて父親としての責任を感じるようになりました。

 その子供は今ハルビンのコンピューターの専門学校に行っています。学費は年15,000元かかりますが、友人から借金しました。事故に遭わなければ成績も良かったし、大学に行かせたいと思っていました。息子が言うには、「高校・大学のコースは時間もかかるし、お金もかかる。家にはお金がない。一日も早く技術を身につけ、稼ぎたい」というのです。

 妻の態度も事故後変わりました。愚痴や恨み言を言うようになりました。今はよくしてくれていますが・・・。今は妻の収入だけで暮らしています。月収は1500~1700元ほどです。治療費がつきに3千元ほどかかりますが、借金で工面しています。

 今、股関節が壊死し、半月板の損傷、骨粗しょう症といわれています。座っている時間が長いと腰が痛くなります。しゃがむことができず、洋式トイレでないとできません。落ちている物を拾うのも痛いです。医者からは、若いのに60歳ぐらいの骨だといわれました。仕事をしたくても体力がついていかずできません。

 病院に入院しているとき、王成さんと、亡くなった李貴珍さんと同室でした。目に包帯をされていて見えませんでしたが、声は聞こえました。痛くて叫んでいる声が聞こえ、とても怖かったです。

 目の包帯は10日ほどで取れました。今も目の前に霞がかかっているように感じます。事故後、毒ガス被害は感染するといわれ、友だちが離れていき、とても寂しく孤独感を感じました。妻は事故に憤りを感じています。夫が仕事ができず、幸せな家庭を壊してしまった、といっています。

 私は障害者になり、治療に専念しています。妻はいたわって面倒を見てくれています。感謝しています。

 日本政府に強く求めます。一刻も早く毒ガスを処理し、同胞が二度と被害に遭わないようにしてほしい。毒ガスは私の一生を台無しにし、希望がかなわなくなりました。賠償問題の解決を願います。生活を保障し、医療を受けられるようにしてほしいです。

■牛海英さん (2003年の事故当時26才)  

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夫も友だちも失い、もう死のうと思いました。

 2003年8月4日、私はいつもの通り、自分が経営する廃品回収の店に働きに出ました。

 朝9時ごろ、5つのドラム缶が、廃品回収所に送られてきました。

 ドラム缶の高さは1メートルほどで、5つのドラム缶を1列に並べていました。持ってこられたとき、かなりの刺激臭が漂っていました。このドラム缶は鉄と銅の2種類の金属があり、銅と鉄のそれぞれの値段が違いますので、現場で解体して、それぞれの重量をはかりました。

 ドラム缶の上に小さい口、ふたがありましたが、開けると中からブーッと気体、液体が噴出しました。この臭いがものすごい刺激臭で、たとえていえばワサビをものすごい量食べたときを想像して下さい。頭の皮がしびれるほどの刺激が広がりました。それから肺に入ると、肺も辛くてたまらなくなりました。

 すぐ私がタオルを水につけて口と鼻をふさぎました。このドラム缶を持ってきた李さんという人に、これは何なのか、毒ではないのかと聞きましたが、毒ではないとの答えでした。

 そのあと10時ごろ、隣の王さんを手伝いに呼んできました。ドラム缶に入っている泥を取り出すために王さんに手伝ってもらいました。

 11時ごろ、李さんと王さんがお腹がすいたといって食事に行きました。戻ってきたとき、どうも変で体がフラフラしていました。酒に酔ったような様子でした。「あんたたち、酒を飲んだのか。」「飲んでいない。とにかく早く、このドラム缶の重量を量って金がほしい」とのやりとりでした。そして、重量を量ってお金を渡しましたが、ずっと酔っ払いのような様子でした。

 私はずっとぬれタオルで鼻や口をふさいでいましたが、お手伝いの人が「なぜそんなに顔が赤いのか」といいました。見ると、首、胸まで赤くなり、目玉は充血し、のども渇いた感じで辛く、水を飲むと少しだけ癒されるという状況でした。

 午後3時ごろには、非常な不快感で、力も全く出ず何も出来ない状態でした。

 そして午後7時ごろ、最初にドラム缶を持ってきた李さんの奥さんがやってきて、夫は亡くなった、貴女も早く病院にいきなさい、と教えてくれました。自分が病院に着きますと、李さんも王さんも同じところで治療を受け、点滴を受けたりしていたのでした。私は涙がぼろぼろ出て、目が腫れてしまいました。お医者さんが目薬をつけてくれましたが、良くなりませんでした。すぐ、もっといい病院にいきなさい、といわれました。家族の助けもあり、夜9時ごろに、203病院に転院しました。

 夜、同じ病室にいた李さんの家族、王さんの家族、などが大声で叫びました。自分も怖くてたまりませんでした。自分が何の毒に中毒したのか全く分からず、朝になって皮膚がものすごくかゆくなりました。そして、水疱がたくさん出てきました。翌朝になったら、他の被害者とは別々の病室に分けられました。同じような中毒の人が、病院にたくさん運ばれてきました。

 午前10時にお医者さんが現れ、イペリットの中毒であると知らせてくれました。そこで私が受けた治療は、目に目薬、それから1日2回の点滴を受けることです。最初にまだ小さかった水泡は見る見る大きくなりました。一番大きいものは卵ほどの大きさになりました。目があかず見えませんでしたが、お医者さんが、何とかしてその水泡から水を出しました、しかし、それが臭くてたまらなくて、腐った卵の臭いがしました。

 たくさんの人もこんな中毒ですので、治療中も大変で、子供もいて、恐ろしさと痛さで、部屋中泣き声でいっぱいでした。

 母が、「噂では、あんたたちの中毒は日本の毒ガスだから、治療法はない。体が腐って死ぬしかない」ということを伝えてくれたのですが、怖くて恐ろしくて、大声で泣きました。しかし、親切なお医者さんが「大丈夫、なんとかなる」と慰めてくれました。

 私の顔は、腫れ上がってとても人間の顔に見えませんでした。鏡に映った自分を見て驚きました。顔中に黒い斑点がいっぱいで、口の上に黒いヒゲみたいなものも出てしまっていました。両足、股間、太ももにも腫れが出ていました。

 1ヶ月たっても、腹のところで感染されたところがまだ腐っていて、かゆくて痛くてたまりませんでした。完全に感染されたところを切り取ってしまう手術をしました。3ヶ月治療を受けて、やっと直って退院しました。

 この中毒は伝染するかもしれないといわれ、家族も近づいてはいけないとされたのです。万が一また病状が戻ったら普通の治療は出来ない、ご了承くださいといわれました。3ヶ月あまりもこんな中で、本当に大変でしたが、退院して喜びました。店もまた経営できるし、家族ともまた会えると思って、すごく喜んだのです。

 しかし、その後にも、しょっちゅう風邪を引き、喉も渇いて痛くて、という感じでした。頭も痛くて意識不明になりました。鼻水も止まらず仕事が出来ませんでした。店は夫の母に来てもらって経営してもらいましたが、義母も年老いていて、できることは限られていました。1年経って2004年の10月ごろ、とうとう店じまいせざるを得ませんでした。

 こんなことになり、気分もものすごく塞いでしまいました。中毒の後、近隣の人々も伝染の恐れがあるということで近づかないし、共同風呂に入ってはだめといわれたり、軽蔑されたりしました。

 毒ガス被害に遭うまでは、夫と友達の家に行ったり来たり、食事会なども出来たのですが、それ以来は、他人に迷惑をかけないようにと、なるべく行かないように、行ってもその家の箸や茶碗を使わないようにと気を使わざるを得ませんでした。

 私は、いつも気分が悪い状態となり、しょっちゅう夫とも喧嘩してしまいました。やがて、夫が風邪を引き長引いたことがあって、「お前から伝染した」と夫まで言い出しました。

 2005年4月に、喧嘩の連続など辛い生活で、夫が我慢できなくなり、離婚するといってきました。子供も俺が引き取るといってきました。4月15日、とうとう離婚となり、自分の衣服を車に入れて家を離れました。これからどこへどう行ってどうするか、全く分かりませんでした。

 車を運転して川のほとりをぐるぐる回り、川に身を投げて死のうとも思いました。しかしお母さんを思い出したらそう簡単にはいけませんでした。病院で一番ひどい状態のとき、お母さんが励ましてくれて、「あなたが死んだら私も死ぬ」とまで言ってくれたのを思い出しました。

 私は生き残りましたが、仕事と家庭と健康な体を失いました。日本政府には早く責任を取ってほしいと思います。中国に遺棄された毒ガス弾をなくしてほしいです。私の同胞、兄弟たちを、こんな目にあわせないで。そして日本政府も謝罪をしてほしいです。戦争が終わって平和の時代になったけれどこんな被害に遭いました。日本政府への要求は、他の被害者も皆共通の願いです。

■馮佳縁さん (2003年の事故当時10才)

スポーツ選手が、夢だった。

 学校の授業で、私が一番好きなものは体育でした。成績も一番でした。しかし今は、その体育の授業を立ってみていることしかできません。毒ガス被害に遭ってから、明らかに免疫力が低下しました。いつも風邪を引いているような感じです。毒ガスにさわった足は、冬の寒い時は痛み、夏の暑い時には痒くなります。もう激しい運動はできません。
 そして一番悲しいことは、自分の友達がみんな、私から離れていったことです。一人で街を歩いているとき、誰かが私を指さして「あの子は毒ガスにさわった子だから、近づかないで」と言われているような気がしてしまうのです。だから私もみんなと遊びたいのだけれど、みんなから嫌がられるのではないかと常に恐くなります。だから自分から避けるより仕方ないのです。そしてだんだん遊びたいという気持自体がなくなっていってしまいました。
 私の夢はスポーツ選手になることでした。しかし、それはもう無理です……。
 毒ガスが、私の夢を壊してしまいました。

■馮佳縁さんのお母さん(白玉栄さん)

 私の子どもは賢くて可愛い子です。しかし、毒ガス被害のために娘の将来は一瞬で壊されてしまいました。娘は、小さい頃から、純粋な可愛い夢を持っていました。しかし、その夢もこの毒ガス被害で、一瞬で全部飛んでいってしまいました。
 私は娘から時々質問を受けます。「何でこの平和な時代に、私がこのような被害に遭わなければならないの?」と。しかし、私はどう答えればよいのか分かりません。私はこれまで、戦争中のことをあまり娘に言いたくありませんでした。しかし、今は娘に対し、その歴史・現実を受けとめるように説得しなければなりません。
 今日まで、中国人民と日本国民は、お互いに友好関係築いてきました。私は、多くの日本のみなさんにこの問題を知っていただき、日本のみなさんの力を借りて、この問題の解決のために努力していきたいと思っています。 そして、毒ガスの被害者であろうと、そうでなかろうと、国境を越えて団結して、戦争の歴史が二度と来ないように努力していってほしいと思います。

■丁樹文さん(2003年の事故当時24才)

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事故当日の様子

 2003年8月4日朝の6時過ぎ、私のところに先輩から電話がありました。5個のドラム缶を掘り出したので、それを廃品回収所に売る手伝いをして欲しいという話でした。
 現場に行ってみると、5個のドラム缶の中にはすでに破れているものもあり、嫌なにおいがしました。私が友人とドラム缶を人力車にのせて運んでいたところ、ちょうど李貴珍さん(※注)と会って、5個のドラム缶を200元で彼に売りました。
 午前9時か10時頃になると、両足が赤く腫れて、涙が出るなどの症状がありました。ちょっと水で洗って家に戻りましたが、食事を取った後吐き気を感じて、全部嘔吐しました。午後1時ごろ、義理の弟の付き添いでチチハル市第三病院に行き、観察治療として入院させられ、静脈注射を打ちました。 深夜10時ごろ、私の病状は悪化しはじめました。足と腿に水泡ができて、両眼とも涙が出て、開けられなくなりました。初めは米粒の大きさの水泡が、だんだん大きくなっていって、8月5日朝には、水泡が玉子の大きさになりました。その医者は激痛を我慢している私の様子を見て、また静脈注射をしてくれました。その時、私の先輩からの電話で、チチハル203病院で治療をするようにと指示があったのです。そして意識不明の私は203病院に転院されました。
 治療では、注射器を使って水泡の中身を抽出しました。医者は細心の注意を払い治療処置をとりましたが、二週間経っても好転する様子が見られませんでした。今振り返って思い出すと、当時の苦痛は本当に言葉で表現できるものではありませんでした。旧日本軍の七三一部隊が中国で人を使って生体実験をした時の、悲惨な場面を思い出しました。

人生が変わってしまった

 私は203病院で110日間余りも入院しました。この被害で私の人生が変わりました。円満な家庭を破壊され、精神的にも被害を受け、生活も困窮しています。
 私は免役力が低下し、かぜを引きやすく、熱が出たりします。頭痛もしょっちゅうあります。体力が落ちていつもだるく、働くことができません。家族を養うのは不能になりました。
 夫婦関係もだんだん悪くなっています。眠れない夜が頻繁にあります。病院での苦痛な治療場面が浮かび上がるのです。
 私は家族を支えなければいけない立場です。うちには70歳のお婆さん、両親、家内そして子供がいます。以前は家族のすべてを私が扶養していました。今被害を受けた私は、今後の生活を考える事ができません。
 私が日本のみなさんに言いたいのは、もし中日戦争がなければ、今の私はこんな酷い目に遭うこともなかったという事です。平和な時代に生まれ育った私が今、戦争の被害を背負っているのです。

※注:一緒に作業していた李貴珍さんは、毒ガスを全身に浴びてしまったため、入院中に亡くなりました。

■陳紫薇さん(2003年の事故当時9才)

たくさんいた友達も 離れていきました

 私は今年12歳になります。この毒ガスの被害を受けてから、私はほとんど何もできなくなってしまいました。私はスポーツに興味があって、学校の運動会ではいつもよい成績を取っていました。でも今は、運動会に参加することもできません。
 昔は少しも風邪を引かなかったのに、今ではすぐに風邪を引くようになりました。記憶力も非常に落ちています。ちょっと先のことも忘れてしまうのです。視力も悪くなっていて、もちろん学校の成績も下がっています。
 私は医者になりたかったのですが、それはきっと夢で終わると思います。これからのことは、何も思いつきません。
 この被害に遭うまでは友達もたくさんいました。しかし今は、ともだちが私から離れていきました。

■陳栄喜さん(2003年の事故当時31才)

同時に家族2人が被害に

 私は陳紫微の父親です。もともと私の家族はとても幸せな毎日を過ごしていました。しかし毒ガス被害の後、私たちの生活は一変して、今は地獄のような日々です。この事故で私の家族は、私と娘の2人が同時に被害を受けました。
 娘はまだ12歳です。本当は純粋で活発な娘でした。しかしこの事故の後、まず性格が大きく変わってしまいました。彼女は今、孤独です。また勉強する力も明らかに低下しています。これからの娘の道がどういう方向になっていくのか、まったく私自身にも分かりません。
 私は父親ですが、父親としてもどうすることもできません。なぜなら私自身も同じ毒ガス被害者であり、私自身が生活能力を失っているので、娘に何もしてあげられないのです。

 

■王成さん(2003年の事故当時23才)

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全身が毒ガスに侵されてしまいました

 チチハル毒ガス事件の被害者44人のうち、死亡した一人を除いて、私が一番酷い症状が出ています。
 私はもともと体重が60キロありましたが、今は50キロもありません。目や足、下半身、陰嚢など、ほぼ全身に被害を受けました。
 私たちは被害を受けた直後、203病院に入院して治療を受けましたが、毎日殺されるような恐怖感がありました。一番恐怖を持っていたのが、患部のガーゼを交換する時のことです。あまりの激痛に、我慢できずに頭をベッドの壁にぶつけましたが、それでも痛みを我慢できませんでした。誰かに包丁で殺された方がましだと思いました。他の被害者が同じ治療を受けているのを見るのも、とても辛いことでした。

■高明さん(2003年の事故当時7才)

 私は友だちと泥遊びをしていて、毒ガスに触ってしまいました。私の友達はみんな私と一緒に遊んでくれません。すごく悲しいです。

■高明さんのお母さん

 娘はまだ8歳で、将来のことはまったくわかりません。 事故直後の治療中も、同じくガーゼを交換するとき、娘は泣きながら、「もうやらないで」と言っていました。その声を聞くたびに、私の心にも激痛が走りました。
 だから私は、病院にガーゼ交換を毎日行うのはやめてくれないかとお願いしたのです。娘の足が毎日血だらけになって、極端に言えば骨が見えるような状態でした。
 今、学校に通学するときも、この子だけ一人で歩いていきます。体育の時間も,この子だけ立って授業を見ています。