04  裁判記録 

◇ 2007年1月25日提訴 訴訟の内容(訴状の概要)

1 事件名、当事者等の概要は以下のとおりです。
① 事件名 国家賠償請求訴訟
② 係属裁判所 東京地方裁判所(民事13部)
③ 当事者 原告 本件生存被害者43名及び死亡被害者の遺族5名の合計48名
被告 国

2 訴状において原告が求めている裁判の内容(「請求の趣旨」)
現行の制度では、原告らが本来望む医療・生活補償制度の制定を求めることはできないため、本件訴訟では国家賠償請求をしています。
具体的には、本件の直接被害者である原告ら43名については、1人当たり3300万円、本件により死亡した被害者の遺族である原告5名については、5名全員で1540万円、の賠償を求める形を取っています。

3 訴状において原告らが2の裁判を求める理由(「請求の原因」)

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◇ 2007年6月6日第1回口頭弁論期日

6月6日、東京地方裁判所103号法廷にて、13時30分からの約1時間、チチハル8・4事件の第1回口頭弁論が行われました。この法廷は、100人の傍聴席を備えた大きな部屋ですが、マスコミと傍聴にきた市民でほぼ満席でした。
第1回ということで、弁護団の佐藤香代弁護士より、訴状での原告側の主張の骨子について、熱のこもった分りやすい弁論がありました。裁判官、被告の国側代理人、そして傍聴席にわかりやすく説得力をもつためにと、いわゆるTVで使われるようなフリップを提示しながらの視覚的にも分りやすいものでした。
つづいて、
原告の代表として、この度中国のチチハル市から来日した陳栄喜さん(36歳。写真右下)、王磊くん(17歳。写真左下)による陳述が行われました。
陳栄喜さんは自身とともに娘の陳紫薇さん(当時小学生)も毒ガス被害を受け、元気で明るかった娘が一転してふさぎがちな性格になってしまったこと、家族を経済的に支えてきた自らも毒ガス被害により働けない身体になり娘を支えてやれなくなってしまったことの苦悩をたんたんと語ってくれました。
王磊くんは中学生でサッカーが大好きだった中学生の時に毒ガス被害を受けたことでサッカーができなくなったばかりか偏見によって友だちも自分から離れていくとともに、結局中学も退学しなければならなくなったことを話してくれ、一瞬にしてそれまでの幸せな子ども時代を破壊してしまうという毒ガス事件の残酷さが伝わってきました。
二人とも、中国国内はもとより、外国の法廷で意見を述べることになるなど、つい最近まで考えたこともなかったと思います。当然初めてのことで、緊張もしていたようですが、自分や家族が体験したことをとにかく裁判官や国側代理人、マスコミの皆さんに知ってもらいたいと、気持ちをこめて、堂々と話していました。
そして最後に、弁護団長の小野寺利孝弁護士より、このチチハル8・4事件は、1993年に化学兵器禁止条約が締結され、さらにこれに基づいて日本と中国との間で化学兵器の廃棄に関する覚書が交わされ、日本が中国に対し化学兵器の廃棄すべき義務を負った後であるにも関わらず、日本政府が中国への情報提供を怠る等誠実な対応をしてこなかったことによって起きた事件であること等、本件のもつ特殊性を踏まえた本件訴訟の意義が語られました。なお、国側からは国の責任を否定する答弁書が提出されました。

◇ 2007年9月3日第2回口頭弁論期日

第2回口頭弁論から裁判長が代わりました。それにともない、証拠書類の継続などが行われ、冒頭で南典男弁護士が意見陳述を行い、7月18日に東京高裁で言い渡された第1次訴訟控訴審判決の不当性と共に、チチハル事件の特殊性を明らかにしました。

チチハル事件の特殊性

1)2003年のチチハル事件は、1999年の、中国国内に遺棄された化学兵器の廃棄を約束した「覚書」の締結以降に起きています。

2)チチハル市内には、旧日本軍の化学部隊が駐屯しており、事故発生地点は旧日本軍の飛行場、または隣接する地域で、事故発生の危険が高い地域でした。

第1次訴訟控訴審判決は、「遺棄された場所が中国全土と広いため、探しても見つけられたとは限らない」と言う判断をしましたが、この考え方はチチハル事件には当てはまりません。日本政府が資金、技術、人材と情報を提供し、磁気探査などをしていればチチハル事件は防げたはずです。

崔金山さんの証言

私は、1960年生まれで、5人兄弟のうちただ1人の息子です。家族から大事にされ、期待もされていました。事件当時は43歳でした。

私は中学を中退し、様々な仕事を経て、運送仲介業の会社で働きました。22年前に結婚し、1年後に娘を授かりました。両親と同居し、家族仲も良い家庭でした。娘には教育を受けさせようと、大学の入学資金を貯めるため、更に仕事に励みました。2000年には、親戚と共同経営で運送仲介業を初め、朝8時から夜遅くまで夢中で仕事をしました。唯一の息子として、一家の主として、父親としての責任を全て果たしているとの自負があり、誇りとしていました。

2003年8月4日、駐車場を整地するため、北疆花園団地の工事現場から土を分けてもらうことになり、午前10時頃1台目の土が降ろされました。1人で整地作業を始め、1時間くらい後から他の4人(いずれも原告)が加わり、午後5時まで作業をしました。

夜になると、顔がこわばり痒みを感じるとともに、これまでに経験したことのない疲労を感じました。翌朝は目が異常に充血し、痛みと痒みを感じました。咳や痰が出て、陰嚢が非常に痒く腫れて、首から顔、足首から下の皮膚が黒くなり、脱力感もひどくなりました。

症状は治まるどころか、更にひどくなったため、7日に203病院に入院しました。医師からは「マスタード中毒」と診断されました。陰嚢は化膿して糜爛し、化膿した部分にはガーゼを当て、1日に2回取り替えましたが、糜爛して腐った皮膚が付着し、痛みと共に恐怖が伴いました。皮膚が剥がれた痕に薬を塗るときは耐えがたい痛みでした。

入院治療は1ヵ月半でしたが、入院中に、被害者の1人が亡くなったと聞き、私も病院を生きて出られないのか、と不安と恐怖で一杯になりました。退院するとき、医師から「完治することはない」と言われました。

事故のために体調が悪く、他の人が伝染を恐れるため会社の共同経営を諦めました。全身の脱力感がひどく、今も少し動いただけで汗が出て息苦しくなります。風邪もひきやすく、治るまで1週間以上かかります。天気が悪いと、体中が痒くなります。陰嚢はいつも痒みがあり、じっと座っていることができません。妻へのしわ寄せが大きくなり、妻との関係が悪化しました。

娘は医科大学に入学します。私が事故にあったとき、娘は高校でいじめられていましたが、私にこの話をせず、「大丈夫よ。お母さんも私もいます。私は勉強して大学に入ります。ご安心ください」と慰めてくれました。その娘が今、「医学も発展しているから、医者になりお父さんを治してあげたい」と言ってくれています。

娘の学費は、私が用意しなければならないのに、その目処が立たないばかりか、医療費がかかり働けない私は、足手まといです。

◇ 2007年12月3日第3回口頭弁論期日

原告弁護団は、国の作為義務違反を基礎付ける事実関係を明らかにする、準備書面(2)を提出しました。富永由紀子弁護士、穂積匡史弁護士が、口頭弁論でその要旨を説明しました。

国はチチハルでの毒ガス兵器の存在を認識

旧日本軍は、1929年ごろから毒ガス兵器を大量に製造し、中国国内に配備しました。チチハルには、関東軍科学部が駐屯しており、実戦、実験演習の拠点でした。

戦後「復員局」が設置され、毒ガスの配備・使用の実態、終戦前夜の組織的遺棄について十分承知している旧軍関係者が業務を行いました。復員者からも大規模な聞き取り調査を行い、中国に展開していた各部隊の状況と行動を把握していました。関東軍化学部を含む全ての部隊の行動が調査・把握されていたのです。

国は中国における化学兵器の存在に強い関心を持ち、1955年頃から、資料を相次いで入手しました。その中には、関東軍化学部の元部隊長が作成した「化学兵器研究経過の概要」「化学戦研究史」があります。アメリカや個人が保有していた重要機密書類も国に返還され、中国で配備・使用された化学兵器の実態についての重要書類が多数含まれていました。国はチチハルに毒ガス兵器が遺棄・隠匿された事実を認識することも出来たのであり、記録にとどめるなどの方策は十分可能でした。

◇ 2008年3月10日第4回口頭弁論期日

◇ 2008年6月23日第5回口頭弁論期日

◇ 2008年9月22日第6回口頭弁論期日

◇ 2009年1月19日第7回口頭弁論期日

◇ 2009年3月16日第8回口頭弁論期日

◇ 2009年5月11日第9回口頭弁論期日

5月11日、東京地裁の大法廷は遺棄毒ガスチチハル訴訟の原告代理人の準備書面の朗読がおこなわれました。佐藤香代弁護士からは被害の実態と現状を医学的見地から実証しました。次に、全人生的な被害の状況を菅野弁護士から陳述しました。

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◇ 2009年7月29日第10回口頭弁論期日

7月29日、東京地裁の103号法廷は広い法廷にいっぱいの傍聴者で埋まりました。陳栄喜さん、陳紫薇さん、馮佳縁さんの3人の本人尋問と、佳縁さんのお母さんの白玉栄さんの証人尋問がおこなわれました。

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◇ 2009年9月7日第11回口頭弁論期日

9月7日の口頭弁論では、龍国安さんの本人尋問と、藤井医師の承認尋問が行われました。

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◇ 2009年10月19日第12回口頭弁論期日

午前は、楊樹茂さんの本人尋問です。単刀直入に被害事実から尋問にはいりました。

午後は、橘田亜由美医師の証人尋問からです。最初に「神経内科」についての質問からはじまりました。このあと、国側代理人による反対尋問がありましたが、些末な細かなことを聞くだけでたいした内容はありませんでした。

ビデオ上映・于景芝さん・・・この日の裁判の最後は今回来日できなかった于景芝さんのビデオ上映です。

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◇ 2009年11月19日第13回口頭弁論期日

李双義さん、施青さん、王立冬さんに尋問がありました。

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◇ 2009年12月22日第14回口頭弁論期日

チチハル裁判が事実上の結審となり、原告・丁樹文さんが最終意見陳述しました。弁護団からの意見陳述もありました。

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◇ 2010年5月24日 東京地裁 第1審判決

原告の請求を棄却する。(敗訴)

~日本軍の遺棄事実、被害者の重篤な状況、被害の予見可能性を認めるも、結果回避可能性がない、とし日本政府の責任を免罪~

5月24日(月)午後1時10分、東京地裁103号法廷で、遺棄毒ガスチチハル事件訴訟の判決言い渡しがありました。裁判長は「主文、原告の請求を棄却する。裁判費用は原告の負担とする」と言い渡しました。短時間の判決でした。

ほぼ満席の傍聴席からは「不当だ」「意気地なし」などと怒りの声があがっていました。判決にのぞんでいた原告は一瞬何がおこったかわからない様子でした。

判決文は、全体でも62ページとそう長いものではなく、しかもそのうち裁判所の判断部分は3分の2ほどでした。裁判所の判断は①日本軍が遺棄した事実をしっかり認定しました。②日本政府はチチハルに遺棄した毒ガスによって被害がおこることを予見することができたということも認めました。③チチハルの被害者が被毒直後に重篤な身体的状況に陥ったこともしっかり認定しました。

しかし、この毒ガスの被害を防ぐことができたかどうかという「結果回避可能性」はなかった、と政府の責任を免罪し、原告の請求を棄却してしまったのです。つまり中国にたくさんの毒ガスを遺棄してきたので、チチハルを優先的に探査する合理的な理由はない、というのです。わかりやすくいえば、たくさん捨ててきたから、事故は防げない、と言っているようなものです。これは国民の一般常識からはかけ離れています。子どもだましのような判決を受け入れるわけにはいきません。

判決文を詳しく見るとさらに問題もあります。この裁判が提起されてから、多くの被害者が来日し、被害のようす、被害後時間がたっても身体的状況はまったく改善されていないこと、生活の安定も失ってしまったこと、などを意見陳述や本人尋問で訴えました。裁判長はこの原告の発言を何も聞いていなかったのでしょうか。事故直後の状況は認定しましたが、その後の経過については、一切ふれていないのです。橘田医師、藤井医師が毒ガスの被害は呼吸器疾患、皮膚疾患ばかりでなく、自律神経の障害、高次機能障害も発症していて、膀胱、発汗、心臓などの異常、記憶力の低下、易疲労性もみられるなどと意見陳述していることも判決では、まったく無視してしまいました。

また、判決文の末尾にこっそり「日中共同声明によって、中国人の戦争被害の請求権は放棄されている」などという文が突然書かれているのです。チチハル事件は2003年におこっています。ずっとあとの事件です。強制連行事件で「請求権放棄論」をとった最高裁の担当者も「遺棄毒ガス事件に、請求権放棄を摘要することは難しい」と述べているのに、です。

裁判官が独自の判断ができず、時の官僚の意向に左右されるという情けない実態をさらしてしまいました。

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