平成19年(ワ)第1441号損害賠償請求事件 原 告 王 春林 外47名 被 告 国               意見陳述書                               平成19年9月3日 東京地方裁判所民事第13部 御中                             原告ら訴訟代理人                                弁護士 南 典男 1 去る7月18日、旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器により被害を受けた者たちが原告となっている 同種事件の判決が東京高裁でありました。その判決では,「本件毒ガス事故の発生を防止できた高度 の蓋然性があったとは」言えないとして,原告らの請求を認めませんでした。   しかし,国は,毒ガスを遺棄して人の生命に係わる危険な状態をつくりながら,元日本兵士から 聴き取りをせずに遺棄した情報を記録にとどめないどころか文書等を消滅させ,情報を収集すること も独占している情報を中国側に提供することもせず,多くの中国の市民に被害を与えたのです。国が 誠実に努力さえすれば,情報を収集することも中国側に情報を提供することもでき,被害を防止する ことはできました。事故の発生を防止できなかったとして国を免責した7月18日の判決は,加害者 の利益に偏した不公平,不正義の判決と言わざるを得ません。 2 しかし,同時に,本件チチハル被害事件は,この不当な判決の考え方によっても国の法的責任が 肯定される事案であることを以下申し述べたいと思います。   第1に,本件事故は,国が中国に対し化学兵器の廃棄を約束した日中間の覚書以降に起きたとい う点です。   中国政府は、1989年、日本政府に対し、遺棄化学兵器の処理を要求しました。しかし、日本 政府は、中国における遺棄化学兵器の存在を十分認識していたにもかかわらず、これを否定しました 。事ここに至って中国政府は、国連に問題を提起するのです。中国政府は、1992年2月にジュネ ーブで提出された文書「中国における日本遺棄化学兵器の発見状況及び現状」と題する文書において 、次のように指摘しています。   「過去半世紀近くに亘り、日本による遺棄化学兵器は中国人民の生命及び生活環境に重大な危害 を及ぼしてきた。その当該国は、中国に遺棄・隠匿した化学兵器について、今日まで何の情報も提供 していないため、何らの防護措置もとられず多くの人々がこれら化学砲弾、化学剤の発見の過程にお いて、中毒障害を蒙った」と。   日本政府は中国における化学兵器の問題について検討を始め、1991年から1996年の間に 日中間の政府間協議を5回にわたり行う一方,現地調査を7回実施します。   そして,我が国は,1995年9月15日,化学兵器の開発,生産,貯蔵及び使用の禁止並びに 廃棄に関する条約」(以下「化学兵器禁止条約」という。)を批准し,中国も,1997年4月25 日,同条約を批准し,同月29日,両国間において発効します。我が国は,同条約1条3項,4条6 項により,同条約発効から10年を期限として,中国国内に遺棄したすべての化学兵器を廃棄する国 際法上の義務を負うことになりました。   さらに,日本政府は,1999年7月30日中国政府との間で,「中国における日本の遺棄化学 兵器の廃棄に関する覚書」を締結し,旧日本軍のものであると既に確認され,及び今後確認される化 学兵器の廃棄を行うこと,そのためのすべての必要な資金,技術,専門家,施設及びその他の資源を 提供すること,廃棄の過程で万一事故が発生した場合には,必要な補償を与えるため双方が満足する 措置を執ることを約束しました。   1999年以降は、遺棄化学兵器処理事業が発足し,日本政府は内閣府に遺棄化学兵器処理担当 室を設け,毎年,数十億から数百億円もの予算を講じています。中国遺棄化学兵器問題に関し、中日 両政府の「中日共同作業グループ会合」が毎年開催され、中国政府が日本政府に対し、毎回、被害防 止のために,具体的な資料、情報の提供を求めています。しかし、それでもなお、日本政府は情報の 提供を拒み続けています。日本政府は化学兵器禁止条約に批准したので、化学兵器の撤去に関しては 取り組んでいますが、被害防止の努力は何らしていないのです。   本件事故は,化学兵器禁止条約が発効し,日中間の覚書が締結され,遺棄化学兵器処理事業が行 われている中で発生した事故です。この点が先ほど述べた判決の事案と決定的に異なる点なのです。 3 しかも,本件事故は,旧日本軍の化学部隊が駐屯していたチチハル市の中で,旧日本軍の飛行場 の中かこれに隣接する地点で発生しました。事故発生の危険の極めて高い地域で生じた事故なのです 。この点が本件事件の第2の特徴です。   日本政府が被害防止のために誠実に取り組む意思があれば,化学部隊はもちろん,チチハル市に 駐屯していた部隊の元日本兵士から徹底した聴きとりを行い,遺棄した場所を特定することは可能だ ったでしょうし,旧日本軍の飛行場の位置を特定してその周辺の磁気探査をすれば本件事故の原因と なったドラム缶の存在も発見できたでしょう。遺棄化学兵器処理事業が発足し,資金,技術,人材, 情報等の提供が可能な中で,日本側からの情報提供や危険地域の磁気探査の申し入れが行われていれ ば,本件チチハル被害を防ぐことは可能でした。   先ほど述べた不当な判決は,遺棄された場所が中国全土に広範囲にわたることを理由にして被害 防止可能性を否定していますが,被害発生の危険が極めて高かった地域で生じた本件にはこの考え方 はあてはまりません。この判決の考え方によっても,本件事故に対する国の法的責任は明確です。 4 最後に,裁判所に対し,国の法的責任を明確にすることこそ司法の役割であることを訴えたいと 思います。   先ほど述べた判決は,原告らの請求を否定していますが,被害救済を求める強いメッセージを出 しています。   判決は,「日中戦争中に,多数の毒ガス兵器等を中国に持ち込み,これを各地に配備した上,そ の終戦時には,これを隠匿して遺棄したものも含め,日本国政府が認めているだけでも70万発にの ぼる毒ガス兵器等が中国国内に遺棄されており,これらが適切に管理されていない状況が本件各事故 の発生当時も継続していた」こと,すなわち旧日本軍が毒ガス兵器を遺棄した事実を明確に認めた上 で,こうした事実の下においては,「我が国が化学兵器禁止条約に署名し,これを批准するのを待つ までもなく,我が国が,遺棄兵器に関する情報を収集した上で,中国政府に対して遺棄兵器に関する 調査や回収の申出をし,少なくとも,遺棄された毒ガス兵器等や砲弾が存在する可能性が高い場所, 実際に配備されていた兵器の形状や性質,その処理方法などの情報を提供することは,国家としての 責務であるというべきである。」とし,「被害救済措置が策定されることが望まれる」と述べていま す。判決を書いた裁判官も被害者の救済はしなければならないと考えたのでしょう。しかし,政治に 被害救済を求め,司法の役割を放棄しました。   本件チチハル被害事件は,先ほど述べたように,化学兵器禁止条約を批准し,日中間の覚書を 締結した後の事故であり,事故の起こる危険性の高い地域だったわけですから,被害防止はできたの です。そうすれば,貴重な命が失われることもなく,子供達の未来も奪われることはありませんでし た。国の法的責任は明確です。   本当に旧日本軍の毒ガス兵器のために被害にあった人たちを救済するためには,裁判所が国の法 的責任を明確にしなければなりません。裁判所が本件事案の特殊性に正面から向き合い,国の法的責 任を明確にし,何ら罪のない本件原告らの救済に真摯に取り組まれることを希望します。