平成19年(ワ)第1441号 原 告  王 春林   外47名 被 告  国   原告意見陳述 2007(平成19)年 9月 3日 東京地方裁判所民事第4部合議係 御中                 陳 述 人     1 はじめに   私は、この裁判の原告の一人で、崔金山といいます。   2003年8月4日、当時43歳だった私は、一緒に整地作業をしていた  龍国安らとともに、旧日本軍が捨てた毒ガスによって被害に遭いました。   あの日以来、私の生活は一変し、健康な体と心、幸せな家庭生活、そして  誇りとしていた仕事、大切な友人を失い、多くの大切なものを失いました。 2 事故に遭うまで   私は、1960年1月25日にチチハル市内で生まれました。私は5人兄  弟で、3人の姉と1人の妹にはさまれて育ちました。私は、ただ一人の息子  ということで、家族から大変大事にされ、両親からの期待も大きかったです。  幼いころは、悪戯好きでやんちゃで、大人になってからは、快活で進んで人  とつきあう外向的な性格でした。   私は、中学校を1年で中退し、様々な仕事を経験した後、ある会社で十数  年間、運送仲介業の仕事をしました。妻である石孔梅と、今から22年前、  結婚しました。昔からの隣近所で、私たちの結婚は廻りからも祝福されまし  た。結婚して1年後、私たち夫婦は、娘を授かりました。娘の名を、チチハ  ル市の大切な鳥である「丹頂鶴」にちなんで「丹」と名づけました。事故前  まで、私は、ずっと私の両親とも同居し面倒をみて、唯一の息子としての責  任も果たしていました。娘も順調に成長し、家族の仲も申し分のないもので  した。   中学校も中退した私は、娘には、きちんとした教育を受けさせ、娘を大学  までいかせてあげたいと思い、大学の入学資金を貯めるため、さらに仕事に  励むようになりました。十数年間の運送仲介の仕事をしたあと、2000年  に、親戚と共同経営で、念願だった独立を果たしました。私は、後に第4現  場となった「民族車隊」の敷地にある建物と駐車場を借りて、「龍家空車配  貨站」という屋号の運送仲介業を始めました。毎日、朝の8時から夜遅くま  で、営業など様々な仕事を夢中にやっていました。  忙しいながらも気力も体力も充実しており、取引先も増やしていったため、  収入も増えて事故前は年収8万元くらいありました。私は、大切な家族のた  めにもっと頑張ろうと考え、利ざやのうすい仲介業だけではなく、2、3年  のうちにはトラックを購入して自ら運送業をやれば、更に事業を発展させる  ことができると考え、計画を実現するため資金を貯めはじめました。この頃  の私には、唯一の息子としての責任、一家の主としての責任、父親としての  責任の全てを果たし、自分が家族を幸せにしているという自負があり、私自  身そのことを誇りにしていました。このことは、私が事故に遭って、その誇  りを失ってしまったがために、嫌という程思い知らされることになりました。   3 2003年8月4日・毒ガス事故の発生    8月4日の朝、民族車隊の駐車場を整地するため、原告である龍国安が  民族車隊の向かいにある北彊花園団地の工事現場からトラック6杯分の土を  分けてもらうことになっていました。   午前10時ころ1台目の土が民族車隊の駐車場におろされ、私が一人で整  地作業を始めました。運ばれてきた土をスコップで蒔き、平にするという作  業をくり返しました。私は、上半身は裸で、長ズボンをはき、靴下をはいた  上に布靴を履いていました。私が一人で整地作業を始めてから1時間くらい  して、同じく原告である遅帥、龍国安、白剣波、白洪偉の4人も整地作業に  加わり、途中昼食や休憩をとったほか、整地作業は午後5時まで続きました  が、整地作業は完全には終わりませんでした。遅帥は作業中「この土には変  な臭いがある」と言っていました。   夜になると、私は、顔がこわばり痒みを感じるとともに、著しい疲労を感  じ、これらは、これまでに経験したことがないものでした。   翌5日の朝、体調の異変は更にひどいものになっていました。目が異常に  充血し、目を開けると痛みと痒みを感じ、咳や痰が出ました。陰嚢が非常に  痒くて、赤く腫れていました。首から顔、足首から下の皮膚が黒くなり、痒  くなってきました。脱力感もひどく、一日中家で横になっていました。 4 203病院での治療   私の症状は一向におさまらず、それどころか食欲もなく吐き気がしたり、  特に陰嚢の腫れやかゆみがひどくなっていったため、8月7日に203病院  へ入院し、医師から「マスタード中毒」と診断されました。   もっとも症状の重かったのは陰嚢で、入院後は、痒みというより痛みを強  く感じるようになりました。腫れあがっていた陰嚢は化膿し、その3分の2  が糜爛していました。化膿した部分にはガーゼをあて、このガーゼは1日2  回取り替えましたが、取り替えるたびに、糜爛して腐った皮膚や膿がガーゼ  に付着して張り付いてくるので痛みとともに言いしれぬ恐怖が伴いました。  1日1度、腐った皮膚が剥がれたあとに液体の薬を塗られ、ビリビリとしみて、  本当に耐えがたい痛みでした。この治療は入院後1ヶ月半くらい続きました。  目は、赤く充血して痛みも痒みもあり、強い光りがまぶしい状態がしばらく  続きました。医師から、視力が低下したと言われました。また、入院直後は、  咳もひどかったです。顔から首にかけてと足首から下の部分に関して肌が黒  くなり、痒みが続きました。入院中、私は、食欲がなくて病院の食事をよく  残しました。   入院中、李貴珍さんが死亡したことを聞いたときは、私も病院を生きて出  られないのではないかと不安と恐怖でいっぱいになりました。また私の隣の  部屋で、この事件の原告である丁樹文さん、王成さんが水泡を潰す治療を受  けており、彼らの酷い水疱を見たり、水疱を潰す治療の際の凄まじいうめき  声を聞きました。外部からも隔離され家族との面会も特別な部屋のみに限ら  れ、10月半ばに退院する際も、医師から完治することはないと言われまし  た。私は、203病院で毒ガスの恐ろしさをまざまざと見せつけられました。 5 現在の状況 (1)事故によって、私は仕事を失いました。そして仕事をするに必要な健康 も失いました。 事故のため私の体の具合が悪く、また他の人が伝染をおそれていたため、私は、 「龍家空車配貨站」の共同経営をあきらめざるを得ませんでした。仕事を再開 することも体調が許さない状態です。事故前、私は健康そのものでしたが、事 故にあってから、全身の脱力感がひどく、今でも少し動くと汗が出て疲れてし まいます。何か作業をしても、30分もすると、疲れて息苦しくなってしまう のです。全身の脱力感がひどく集中力も続きません。記憶力も悪くなり、聞い たことや自分が言ったことをすぐ忘れるようになってしまいました。風邪をひ きやすくなり、月に2、3回も風邪を引くようになりました。そのうえ、一度、 風邪をひくと、治りづらくなり、治るまで1週間以上かかってしまいます。 また、咳が止まらなくなることがあり、特に毎朝、起きた時、空咳みたいなも のが出てとまりません。少し歩くと、息切れがして、喘いでしまいます。事故 前は、階段で1階から5階まで行くことなどなんでもなかったのですが、今は、 息が切れて、途中で1、2度休まないと上がれなくなってしまいました。 目もすっかり悪くなってしまいました。あるものを2、3分見ていると、目が 疲れてぼやけてきます。また、日差しが強いと目が痛み、涙が出るようになっ てしまいました。このような状態なので、晴れた日には、屋外にいるだけで辛 いです。屋内でも、事故前に読んでいた新聞などの小さな文字は、疲れて読め なくなってしまいました。 曇りや天気が悪いと、体中のあらゆる部分が痒くなり、苦しくなります。特に、 冬になると、痒みが酷くなり苦しくて仕方がありません。陰嚢に関しては、 湿気ぽい感じがし、相変わらずいつも痒みがあり、じっと座っていることが出 来ず、頻繁に足を組み直します。しかも時々非常に痒くなります。非常に痒く なったとき、家にいればシャワーに入りますが、外にいるときはトイレに駆け 込んでかきむしります。こうした苦しみは他の人に話すことができなくて辛い です。  (2)大切な人間関係も失いました。 私は働けなくなる一方で多額の医療費が必要となり、そのために生じる妻への しわ寄せと、私の男としての能力が著しく低下し妻との夫婦生活が減少したこ ともあって、妻との関係は悪化しています。現在、私の両親と私たち夫婦、そ して娘の家族5人は、主に妻の収入、月約1000元で生活していますが、娘 の学費が1年に6500元かかります。私の医療費は月500元かかり、生活 状態は苦しいです。  以前は、私は、仕事もバリバリこなし、人との付き合いも、物怖じすること なく自分から積極的に付き合うことができましたが、被害にあって、体力も気力 も失ったうえに、人から「毒ガスの症状がうつる」と避けられるようになり、 友人に対しても気後れして自分から連絡できなくなってしまいました。私は、 仕事以外に趣味のようなものはなく、友達とのおしゃべりが唯一の楽しみだった ので、友人が去って行ったことは、空虚な感じがして本当に寂しく悲しいです。     (3)私自身の生きていくための誇りを失いました。 私には、今年9月にチチハル市医学院という大学に入学する娘がいます。私が 事故に遭った時、高校一年生の娘は、父親が被害者とわかると、クラスでいじ められるようになってしまいました。こうしたいじめについて、娘は、私に心 配かけたくないと思ったのか、一切この話を私にしませんでした。事故後、私 に対して、「大丈夫よ。お母さんもいます。私もいます。私は、一生懸命勉強 して大学に入ります。ご安心ください。」と慰めてくれたのも娘でした。娘が、 苦難を乗り越え、勉学を継続し、大学に進学できたということは、私の誇りです。 大学に進学することになった娘は、私に、「毒ガスの被害については、中国社 会で注目されているし、医学も発展しているから、5年間勉強して医者になっ て、お父さんを徹底的に治して上げたい。」といってくれました。 しかし、私は彼女に対して、父親として何ができるだろうと考えたとき、絶望 的な気持ちにならざるを得ません。本来であれば、彼女の5年間の学費は、私 が用意し、安心して勉学を継続するようにしなければならないのですが、その 目処は立ちません。医療費ばかりかかり働けない私はむしろ足手まといなのです。 6 最後に   今回の事故は、日本軍が毒ガスを埋めたまま放置していったために起こっ たのです。私は、健康な体を返して欲しいと言いたいです。それが無理だという のなら、日本政府は、中国人にも公平な賠償をすべきだと思います。私はまた、 日本政府に対し、一日も早く、中国に放置されている毒ガスを処理するよう要求 します。このまま放置していることは、本当に、大きな罪です。   尊敬する裁判官、この裁判を通じて正義を実現して下さいますように御願 い致します。                         以上